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アメリカを走る!巨人・沢村栄治

第2回遠征では胸に欧文のユニフォームを着た
巨人にはプロ野球の先駆者として「野球の伝道師」の役割もあった。1935年の第1回米遠征後も、野球の魅力を広めるべく、すぐさま過密日程の国内遠征をスタート。エースの沢村栄治は、その終盤、藤本定義監督率いる東京鉄道局相手の11月3日の試合で1対4と敗戦。5回には一挙3点を奪われる屈辱もあった。藤本監督の指示で、東鉄の打者がドロップを捨て、低め速球だけを狙った成果でもあった。
その後、36年2月14日第二次米遠征に出発、6月5日に帰国の日程だったが、沢村は24試合登板の11勝11敗に終わっている。慢性化していた登板過多の疲労、1回目の遠征より相手チームのレベルが上がったこともあるが、加えて食糧事情もあったという。当時、アメリカでは排日運動が盛んになっており、日系人が減っていた。遠征先で、あてにしていた日系人からの差し入れが滞ることも増え、特に〝米不足〟が選手たちにはキツかった。皆、ゲッソリとしてしまったが、その中でも一番ガリガリにやせたのが沢村だったという。
ただし、同行した関係者によれば、それは食糧不足だけではなく、トレーニングの過多も影響していた。沢村は尊敬する三宅大輔総監督の「投手は走るもの」という指示に従い、どこに行っても黙々と走り続けた。テキサスでもアリゾナでも、ひたすら走った。
帰国後、大阪タイガース、名古屋、東京セネタース、阪急、大東京、名古屋金鯱の6球団で活動を開始していたプロ野球に巨人は合流。しかし夏季のリーグ戦1、トーナメント戦3では、いずれも優勝なし。しかも、洋行帰りのプライドが邪魔し、勝てない中でもトレーニングを怠り、相手チームを軽視する雰囲気があったという。
それを払しょくしたのが、秋季リーグを前にした9月5日から13日まで行われた合宿だ。のち茂林寺の特訓と語り継がれる巨人魂の原点である。(続く)

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