ふてくされた巨人・沢村栄治、茂林寺で変わる

2009年に東武鉄道「館林駅」前に建てられた茂林寺の特訓を今に伝える記念碑。左の狸は藤本監督ではなく(阪神監督時代にはその異名も取った)、文福茶釜の化け狸
1936年、第2次アメリカ遠征後に巨人監督となった藤本定義は自著(『覇者の謀略』(小社刊)のなかで、第2次アメリカ遠征から戻った直後の沢村栄治を見て「全盛は一段落というところで、最高時の調子は失われていた。沢村自身も何か迷っているものがあるようであった」とつづっている。
沢村の球速については、巨人草創期の映像から155キロ以上とのシミュレーションがあるようだが、その前はそれ以上に速かった、ということであろう。もちろん、すべては想像だが、おそらく35年第1次アメリカ遠征あたりが球速に関してはマックスだったのではないかとも思う。日米野球から続く連戦連投の日々が、10代だった沢村のヒジをむしばんだのかもしれない。
ただし“迷い”について藤本は、茂林寺の練習でやる気を取り戻したようだと振り返っていた。巨人軍の礎を作ったと言われる伝説の特訓だ。
実は、この時期、巨人の選手たちは完全に天狗になり、藤本監督にも反抗的な態度を取っていた。ひどかったのが、沢村ら投手陣。いわゆる洋行帰りのプライドに加え、沢村に関しては、信頼していた初代監督・三宅大輔がチームから外れたこともあったらしい。練習にも身を入れず、試合で負けてもヘラヘラ。夜は宴会ばかりしていた。
藤本監督が腹を括って用意した荒療治の舞台が茂林寺の文福球場だった。9月5日から炎天下で猛練習を課す。ターゲットは反抗的な投手たちではなく、若手野手、特に白石敏男だった。
投手陣はほぼ無視し、白石に猛ノック。何度も血反吐を吐き、ぶっ倒れても容赦しなかった。当初は「おかわいそうに」とばかりニヤニヤしていた投手陣の表情が1日ごとに変わり、5日目、ついに自分たちから練習の輪に加わり、野手に負けじと汗を流すようになった。
のち藤本は「巨人軍の伝統の基礎は、あのとき築かれたんです」と胸を張った。沢村の調子も、ここから急上昇。全盛まではいかなかったかもしれないが、日本プロ野球史を切り開く準備は整った。(続く)
写真=坂本 匠

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