画像: 【カープアカデミー物語01】ダイヤモンドの原石がゴロゴロ

【カープアカデミー物語01】ダイヤモンドの原石がゴロゴロ

1990年、広島が選手育成のためにドミニカ共和国に開校したカープアカデミー。後にメジャーで活躍したソリアーノら多くの選手を輩出した。今年、育成から支配下に昇格したバティスタ、メヒアも同アカデミーの出身で、再び注目を集めている。連載「カープアカデミー物語」で、その歴史をたどる。
広島のバティスタ。通訳のクレートさん(左)もアカデミー出身だ
2打席連続代打弾で華やかにデビュー。一軍で旋風を巻き起こしているバティスタに続き、同じく育成選手契約だったメヒアが広島カープと6年契約を結んだことで、あらためて、彼ら(プラス、広島の通訳のクレートさん)の出身であるドミニカ共和国のカープアカデミーに注目が集まっている。
すべては“自前で育てた選手で戦いたい”という広島がもともと持っている考えから始まった。つまり、外国人選手も高いカネで成功するかどうか未知数の選手を獲得するより、手垢のついていない“助っ人”を日本向きに育てたほうが早い、ということだ。
先例がなかったわけではなく、米球界も中南米からの選手発掘のために育成学校(アカデミー)を現地に設立。ドジャースらがすでに成果を挙げていた。
中南米の場合、どうしても治安の問題があるが、広島は野球熱が高く、多くのメジャー・リーガーを輩出しつつ、かつ比較的治安がいいと言われていたドミニカ共和国に目をつけ、広大な土地を買収。球場、宿舎などを備えた選手育成のアカデミーを作り、1990年11月29日に開校した。
当初の入校テストはシンプルそのものだった。60ヤード(約65.6メートル)を何秒で走れるのかどうか。アカデミーの専属スカウトやコーチの推薦以外でテストを受けた者に関しては、ここで6.5秒前後で走れなければ、それだけで“足きり”としたという。
通過した選手に関しては、日本的な練習を一通りやらせ、素質がありと判断すれば合格になる。ただ、そこは若干、面倒でドミニカ共和国にあった野球機構のコミッショナーとの取り決めで15、6歳は正式契約はせず練習生とし、17歳以上ならコミッショナーに申請のうえ、登録が許可され、1カ月の拘束期間が与えられる。そこで力量を最終チェックし、条件を広島、選手双方が了承すれば契約となるわけだ。契約金は当時、日本円で30万ほどだったという。
91年1月15日には早くも選手3人、コーチ1人が来日。二軍キャンプに合流した。選手のうちの1人、バウチスター投手は翌年途中に支配下選手登録となるも、一軍登板のないまま、その年の8月末には任意引退選手となっている。
広島はカープアカデミーについて「5年計画」と明言しており、5年後に一軍選手の登場をめざし、急ぐつもりはなかったが、当時、アカデミーに集まっていた選手の中には、まさにダイヤモンドの原石がゴロゴロ。頭角を現すのに、それほど時間はかからなかった......。
<次回へ続く>
写真=佐藤真一

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