画像: 竜の黄金左腕の2つの記念日【1986、87年8月9日】

竜の黄金左腕の2つの記念日【1986、87年8月9日】

プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月9日だ。
甲子園の出世試合
高校時代の近藤。86年夏の甲子園では“BIG4”の一人に挙げられていた
天理高が悲願の初優勝を成し遂げた1986年夏の甲子園で、“BIG4”と呼ばれたのが、秋田工高の川辺忠義(のち巨人ほか)、沖縄水産高の上原晃(のち中日ほか)、広島工高の上田俊浩(プロには進まず)、そして享栄高の近藤真一だった。なかでも140キロ台の速球と大きなカーブを持つ左腕・近藤は、同年のセンバツにも出場し、プロのスカウトから高い評価を得ていた。
その評価を急上昇させ、一躍“ドラフト1位候補”となったのが、8月9日に行われた1回戦、唐津西高戦だ。先発の近藤は被安打1、奪三振15の完封勝利を飾り、その名を全国に轟かせた。享栄高は2回戦の東海大甲府高(山梨)に2対1の勝利も、3回戦の高知商高戦では、近藤のヒジ痛の再発に、自身、高校時代2本目の被本塁打もあって1対2で敗れた。
近藤にとって甲子園は、アピールの場でもあった。3歳のときに父親が他界し、母の手一つで育てられ、早々に「上で野球を続けます。進学はしません」とプロ志望を明らかにしていた。
意中の球団は中日ドラゴンズだ。愛知県一宮市出身で、少年時代から、あこがれの球団であっただけではない。母、姉、妹の女系家族でもあり、自分はずっと母親と暮らし、親孝行をしなければと思っていたからだ。
中日の田村スカウトも「ノドから手が出るほど欲しい」と絶賛しつつ、「地元だし、ウチが取らなきゃいけないんだけどね。自由競争ならどこにもやらないのにな」と複雑な心境をもらしていた。
夢をかなえてくれたのは、この86年のオフ、監督に就任した39歳の青年指揮官・星野仙一だった。初仕事となったドラフト会議、近藤は1位で5球団の競合となったが、星野監督は、2番目で見事、当たりクジを引き当て、「近藤、約束どおりやったぞ!」と興奮を隠さず、テレビカメラに向かって叫んだ。
近藤の“初恋”が実った瞬間だった。
突然告げられた先発
快挙達成の近藤。この年は4勝、翌年は8勝を挙げたが、以後故障に苦しみ、通算12勝17敗で94年限りで引退となった
期せずして、プロの転機も8月9日だ。
期待されながらも開幕から二軍生活が続いていた近藤が初めて一軍に呼ばれたのが、8月8日。ナゴヤ球場での巨人との3連戦の2戦目だった。このとき首位巨人との差は4.5。中日は意地を見せ、初戦を3対1、2戦目は延長10回4対4の引き分けとした。迎えた第3戦は、勝てば2.5差、負ければ4.5差に戻る。
ただ、中日は激闘の中で先発要員を使い果たしていた。2戦目の後、「監督、明日の先発がいません」と嘆いた投手コーチの池田英俊に言ったのが、「池さん、高校生がおるだろう」だった。
ただ、すぐに告げたわけではない。8月9日、第3戦の当日、黙々と練習をこなしていた近藤は、池田コーチの突然の一言で頭が真っ白になった。
「今日、投げてみるか」
一軍初マウンドが満員の巨人戦、しかもテレビの全国中継もあった。緊張しないわけがない。最初は近藤自身、どうなることかと不安だったが、先頭打者の駒田徳広を3球三振に打ち取り勢いに乗った。以後、3割打者がそろう巨人打線が凡打の山を築く。
ストレートも走っていたが、効果的だったのは、落差のある大きなカーブだ。巨人の打者はまったくタイミングが合わなかった。8回を終えて、巨人打線はヒットも得点もなし。味方打線からは、落合博満の2本塁打もあって、すでに6点の援護をもらっていた。
9回裏、巨人最後の攻撃も仁村薫、鴻野淳基がいずれも三ゴロ。大記録達成まで、あと1人となった。迎えたバッターは、この時点でのセの首位打者・篠塚利夫。近藤は途中から「打たれるなら篠塚さんかな」と思っていたという。
カウント1ボール2ストライクから投げ込んだのは、自信あるカーブだ。一瞬、少し外れたかと思ったが、球審の手が高々と上がり、ノーヒットノーラン達成。それはないと球審に抗議する篠塚だが、すでにナゴヤ球場は割れんばかりの歓声に包まれていた。
「最後はボール。でも、もうそういう雰囲気でした。ファンの大声援がそうさせたんだと思います」とは、近藤の後年の言葉だ。
116球、許した走者は2四球と1失策の3人だけだった。プロ初登板でノーヒットノーランは、もちろん史上初。無欲でつかんだ快挙だった。
写真=BBM

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