画像: 【石田雄太の閃球眼】岩瀬仁紀の屈辱から始まった第一歩

【石田雄太の閃球眼】岩瀬仁紀の屈辱から始まった第一歩

8月6日、東京ドームでの巨人戦で岩瀬仁紀はセーブを挙げるとともに、歴代1位の950試合登板を達成した
ドラゴンズの岩瀬仁紀が7月21日のカープ戦に登板し、通算登板数を945としたことで歴代3位となった金田正一さんのコメントは、器のでっかさを示して余りある、じつに素敵な言葉だった。
「彼は不器用なタイプ。何でも力いっぱいで、常に全力投球のイメージがある。でも、不器用なのは素晴らしいこと。若い選手にも見習ってほしいね。ワシがシーズン400イニングを投げた1955年は、62試合の登板で先発が37試合、34完投だった。現代の野球にはストッパーという役割があるが、我々のマネも、岩瀬のマネも、もう誰にもできないだろう。岩瀬には良き時代に野球ができた幸せをかみしめて、末永く頑張ってほしいね」(スポーツニッポン)
確かに金田さんの残した数字はすごい。球史を紐解くとシーズン400イニングを記録したピッチャーは15人もいるのだが、2リーグ制以降に限れば権藤博、秋山登、稲尾和久、金田の4人だけ。1955年の金田が残した記録は29勝20敗。登板数、投球回数だけでなく、どの数字を見ても今のピッチャーではあり得ない。
一方、岩瀬のキャリアを眺めると、キャリアハイの65試合に投げた1999年の投球回数は74回と1/3。通算成績で見ても、944試合の時点で5526イニングの金田と944回2/3だった岩瀬では正直、比べるべくもない。しかしそこはカネやん、時代が違うこともきちんと受け入れて「我々のマネも」「岩瀬のマネも」誰にもできないと言い切っている。高校時代から150キロのボールをマシンで打てるようになるなど練習環境が劇的に変わり、バッティング技術が飛躍的に進歩した現代のプロ野球において、リリーフという専門職で突出した数字を残してきた岩瀬の偉業を、カネやんは素直に讃えてくれている。
その岩瀬の初登板は実に印象的だった。岩瀬のプロ1年目、1999年のドラゴンズの監督は星野仙一。当時のドラゴンズは1988年以来、10年間も優勝から遠ざかっていた。その間、2位が5度、1勝の差に泣くこと、2度。そのわずかな差を埋めるために、星野は2年越しの恋人を口説き落とした。それが山田久志だった。星野はチームに最後の壁を越えさせるための切り札として、山田にピッチングコーチを託したのだ。
そして迎えた1999年の開幕戦。星野はこの試合、ドラフト2位のルーキーを大事な場面で登板させた。それがNTT東海から入団した岩瀬だった。1点をリードした6回表、ツーアウト二塁のピンチで、開幕投手の川上憲伸に代えて岩瀬を投入したのである。しかし、結果的にこの起用は失敗に終わった。岩瀬はカープの前田智徳、江藤智、金本知憲の3人に3連打を浴びて、逆転を許してしまったのだ。ワンアウトも取れずに降板した岩瀬だったが、しかし、この大胆な起用が4月のドラゴンズに勢いを生むことになる。
それを後押ししていたのが、山田だった。山田は春季キャンプのブルペンで、腕の振りが見事なルーキーに目を奪われていた。
「岩瀬はスライダーを投げるとき、綺麗に腕が振れていた。ピッチャーは自信があると腕が振り抜けるものなんだ。コイツはスライダーに抜群の自信を持っているんだなとすぐに思ったよ」
岩瀬は中継ぎ陣を組み立てるカギになる。キャンプ、オープン戦を通じてその確信を抱いた山田は岩瀬をどう使うか、どう自信を持たせるか、悩んでいた。そして開幕直前、星野にこう進言した。
「開幕に岩瀬を使いましょう」
「そうか、ヤマ。岩瀬、いくか」
初登板では打たれた岩瀬だったが、彼は「星野監督と山田コーチなら一度の失敗なんて、すぐに取り戻すチャンスをくれると思ってました」と、平然と言ってのける度胸も持ち合わせていた。実際、すぐにリベンジの機会を与えられた岩瀬は見事にその期待に応えた。ルーキーイヤーからドラゴンズのセットアッパーを完璧に務め上げた岩瀬は、そのシーズンのリーグ優勝に貢献。以降、中継ぎとして5年、抑えとして10年以上、ドラゴンズのブルペンを支え続けた。15年連続50試合以上の登板、通算400セーブ、そして歴代1位の950試合どころか1000試合登板だって夢ではない岩瀬の足跡――その第一歩は、あの日の屈辱から始まっていたのである。
文=石田雄太 写真=大賀章好

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