画像: 力士時代の天龍。スラリとした美形で女性人気も高かった

力士時代の天龍。スラリとした美形で女性人気も高かった

「間違っても、俺の名を汚すなよ!」

天龍源一郎という名を聞いて、どんな姿を思い浮かべるだろう。40代半ばより下の世代であれば、間違いなく稀代の名プロレスラーのイメージだろうし、小中学生にまで下がると、CMに出てくる「だみ声のコミカルなおじさん」かもしれない。

だが、プロレス界で活躍する前は、長いリーチを生かした突っ張りを武器に、前頭筆頭を最高位に活躍した大相撲の力士だった。

大横綱・大鵬を擁する二所ノ関部屋に入門したのは13歳のとき。長身の恵まれた体格で期待を受け、本名・嶋田の名で取り進み、十両に昇進したのは昭和46年(1971年)秋場所だった。その際、師匠の二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)から与えられたのが「天龍」の四股名。博学で漢文にも精通し、大鵬、大麒麟、金剛など独特の四股名を生んできた親方だが、しかし、この「天龍」は二所ノ関のオリジナルではない。本来は角界随一の名門・出羽海部屋のものだ。

最近3代目が誕生した時津風部屋の「豊山」のように、四股名は本来、その部屋の中で受け継がれていくのが普通だ。しかし「天龍」の場合は、いわば、ライバル部屋から譲り受けるという異例の継承だった。

出羽海部屋の「先代」の名は天竜(天龍)三郎。大正から昭和初期にかけて関脇を最高位に活躍した力士だが、それよりも昭和7年(1932年)、力士の待遇改善を協会に訴え、大量脱退者を出すなど角界を大きく揺るがした「春秋園事件」の中心人物として名高い。

二所ノ関親方は、そうした気骨にあふれ、スラリとした体型をしていた先代の姿を、「2代目」に重ね合わせたようだ。部屋付きの親方がわざわざ出羽海部屋、そして先代のもとへ何度も出向き、ようやく名乗ることを許されたという。初めて先代と対面したときに天龍がかけられた言葉は、「間違っても俺の名前を汚すなよ、コノヤロウ!」だったそうだ。

「天」は万物を支配し、「龍」は中国において皇帝の象徴でもある。かの角聖・常陸山が先代へ直々に与えたという四股名だが、肝心の天龍本人は当初、そうした重みを知ることがなかったという。新十両の場所も6勝9敗と負け越して幕下生活に逆戻り。当時の月刊『相撲』には「先代天龍さんは、さすがに気になるのか、十両のはじまるころから国技館に足を運び、二代目の相撲をみていたが、内心ではガッカリしたのではないだろうか」などと書かれている。

画像: 二所ノ関親方、大横綱・大鵬のもとにいた自分がプロレスラーとしての礎だったという

二所ノ関親方、大横綱・大鵬のもとにいた自分がプロレスラーとしての礎だったという

今、抱く「相反する思い」

こうした苦い経験を糧に、天龍は昭和48年(1973年)初場所で新入幕を果たし、三役には届かないながらも幕内を16場所務めた。だがその後、部屋の後継者騒動に巻き込まれ、昭和51年(1976年)秋場所限りで角界を去り、プロレスラーとして名を成していく。そうした過程において、自ら文献を調べるなどし、二所ノ関親方が手を尽くして自分に与えてくれた「天龍」の名の重みを知ることとなる。

格闘技人生53年。平成27年(2015年)11月に現役生活を終えた今、本人は「天龍」という名について、こう考えているという。

「ここまで頑張って名前を引き継いできたんだから、『何をやってもいいですよね、天竜さん』という思いはあります。でも逆に、もっと凛とした形で名前を継がせたかっただろうなという出羽海部屋の方たちの気持ちも分かる。そうした、相反した思いを持っている自分がいるんです」

波乱の運命をたどってきた四股名「天龍」。現在、関脇御嶽海の活躍で名門復活の兆しをみせる出羽海部屋だが、そこから「3代目を継ぎたい」という新鋭が現れるようなドラマがあってもいい。それが実現したとき、2代目天龍は後継者へ向け、どのような言葉をかけるのだろうか。(文中敬称略)

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