画像: 阪神ゴールデンルーキー・岡田彰布の2万号は「そらそうよ」だったのか?【1980年8月19日】

阪神ゴールデンルーキー・岡田彰布の2万号は「そらそうよ」だったのか?【1980年8月19日】

2万号のボールを手に岡田はニッコリ。初々しい
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月19日だ。
「そらそうよ」が口グセの人気解説者で、『週刊ベースボール』ではコラム連載もお願いしている岡田彰布氏のプロ1年目の出来事だ。
1980年8月19日の広島戦(広島市民)で、「ストライクなら振ろうと思っていた」という阪神の新人・岡田は、午後6時35分、広島・山根和夫の内角カーブをとらえるとレフトスタンドに13号。これがセ・リーグ創設31年で到達した通算2万号でもあった。
「たまたまの巡り合わせだけど、僕の名前が球史に残るんだから幸せです」と初々しい笑顔を見せた岡田。早大のスラッガーとして大活躍し、79年秋のドラフト会議では6球団の1位競合の末、自身が幼きころから愛し続けた球団でもある阪神へ、“相思相愛”で入団した。1年目から打率.290、18本塁打をマークし、新人王に輝いた、まさにゴールデンルーキーである。
それだけに、このメモリアルアーチも、幸運の持ち主・岡田にふさわしい......と、この時点なら振り返ることができるのだが、開幕直後の雰囲気はまったく違った。むしろ、岡田を“不運の男”と見ていた人のほうがはるかに多い。
春季キャンプでは、大学時代の定位置三塁にミスタータイガース、掛布雅之がいたこともあり、「一塁か外野」という構想だったが、ブレイザー監督はキャンプ中に元ヤクルトのヒルトンを獲得。一塁に起用する方針を固めたことで、あとは外野しか守る場所がなくなった。
しかもブレイザーは、もともと「新人を最初から使うべきではない」という考え方で、開幕後の岡田はベンチウォーマー。怒ったのが、岡田に期待していた阪神ファンとなる。ヒルトンのバットが大不振だったこともあり、ヒルトンが打席に入るたび、大岡田コール。球団事務所にも抗議の電話が殺到した。
ついには小津球団社長がブレイザーと直接会談し、岡田起用を促す(昔の阪神は、こういうことを平気でやった)。結局、掛布が故障していたこともあって、4月22日、岡田は「八番・三塁」でスタメン出場。その後、5月にヒルトンが解雇、ブレイザーもヒルトンの後釜ボウクレア獲得で球団ともめ、退団となった。
中西太コーチが監督に昇格後、岡田がレギュラーとなったが、セカンドの定位置確保は2年目からで、1年目は掛布の故障もあってサードが60試合と一番多い。
なお2万1号は、この5分後、ヤクルトの尾花高夫が巨人の王貞治に浴びた一発だったが、試合後にそれを知った尾花は勝利投手になったこともあって、「残念だな。分かっていたらもっと早く打たれたのに。天下の王さんと並んで球史に名前を残せたのにな」と言って笑っていたという。
写真=BBM

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