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【カープアカデミー物語06】日本に来たいわけではなかった

1990年、広島が選手育成のためにドミニカ共和国に開校したカープアカデミー。後にメジャーで活躍したソリアーノら多くの選手を輩出した。今年、育成から支配下に昇格したバティスタ、メヒアも同アカデミーの出身で、再び注目を集めている。連載「カープアカデミー物語」で、その歴史をたどる――。
強かった米球界志向
チェコのガッツポーズのマネをする日本に滞在するアカデミー出身の選手とコーチたち。左端がペレス、中央はラミーレス
前回は、1995年、一軍1年目にして15勝を挙げたロビンソン・チェコの活躍を追った。
同年、チェコと同時期に支配下登録されたラミーレス投手は二軍生活が続いたが、“第2のチェコ”と期待され、速球とスライダーを武器に先発ローテにも入っている。19歳ながら、すでにドミニカ共和国に妻子がいた。
さらに速球派投手のドゥラン、俊足外野手のペレス、コーチ修業のガルシア、レデスマが、この年、シーズン中も日本に滞在していた。翌年から二軍での外国人枠が撤廃されることが内々で決まっており、その準備も兼ねてだったのかもしれない。
今回は、このうちの1人、ティモニエル・ペレスについて簡単に紹介する。
1977年4月8日、ドミニカ共和国生まれ。左投げ左打ちで、身長170センチそこそこながら俊敏な動きが売りだった。
6歳のときに父親に教えてもらって野球を始め、翌年からリトル・リーグに入った。カープアカデミーに入ったのは、93年の11月。アカデミーのスカウトが友人を見に来たとき、紹介してもらい、「ならば一緒に来なさい」と言ってもらった。ただ、別に日本で野球をしたいと思ったわけではない。そもそも「それまで日本という国があること自体知らなかった」という。
初日、60ヤード(約55メートル)を6秒6で走るテストに合格し、そのままアカデミーの練習に参加した。
「ランニングとアメリカンノックが延々と続き、あまりの厳しさに気を失ってしまった。それでも、ここに来たのは家族のため、頑張らねばとあらためて肝に銘じて今まで頑張ってきました」(ペレス)
95年に来日。日本に来て驚いたことは「部屋が布団だったんで、ベッドがなかったこと。どこに寝ればいいのか分からなかった。あと次の日の朝、食堂に行ったらコーヒーがあったからのんだらしょう油だった(笑)」と笑う。音楽が好きで、まさにラテン系気質の陽気な若者だった。
その後、96年の開幕前に支配下選手登録。4月5日の開幕の中日戦(広島市民)に代打で出場し、サヨナラヒットを放っている。スタメン獲得とはいかなかったが、翌97、98年は一軍に定着。当時、将来の夢を聞かれ、「ドミニカの母に家を買ってやりたい」と語っていたが、当時、アカデミーの選手の多くは、日本に来たいわけではなく、野球によって貧しさから抜け出すサクセスストーリーを追いかけていただけ。それが結局、次回で紹介する「チェコ事件」にもつながっていく。
ペレスも米球界志向が強く、98年オフにはポスティングでメジャー移籍を希望したが、獲得球団が現れず、翌99年シーズン終了後、自由契約でメッツに入団した。メジャー時代、日本人記者を見かけると「アッチニイケ!」と日本語でからかうこともあったという。
結局、広島通算227試合、メジャー通算603試合に出場。アカデミーの成功例の1人と言っていい。
なお、日本時代は1977年生まれとなっていたが、メジャーでは1975年生まれに変わった。2歳サバを読んでいた理由は分からない。
<次回へ続く>
写真=BBM

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