画像: 【沢村栄治 栄光の伝説(19)】最後の輝き

【沢村栄治 栄光の伝説(19)】最後の輝き

1941年の沢村(左)と吉原。胸には「巨」の漢字が入った
1940年(昭和15年)の春季リーグは、新聞等では「春の陣」と表記された。日本中に反米の雰囲気が高まり、すべては“アメリカ産”のプロ野球延命のためにと、球界関係者は以後、用語等について露骨なほど譲歩していく。
すでにチームに復帰し、練習には参加していた沢村栄治だったが、2年5カ月の兵役によるブランクもあって、藤本定義監督の配慮でしばらくは調整に徹し、夏季リーグ、6月3日に復帰登板を果たした(当時、1シーズン制で年度優勝は決めていたが、その中を春季、夏季、秋季と分けられた。現在は公式記録となっていないが、それぞれに優勝、首位打者など個人の表彰もある)。
38年に巨人入団の千葉茂(のちの伝説の二塁手)にすれば、銀幕のスター(死語か)が突然、自分の隣に来たようなものだ。「(同期の捕手)吉原(正喜)ばかりかわいがられて、川上(哲治。同期入団。のち打撃の神様と呼ばれる)と2人で、うらやましがっていた」と振り返る。チーム内では年上選手からも一目置かれる存在で、若手選手からは、とっつきづらい一面があった。「吉原、そりゃあかんわさ。カーブにしよ」など江戸弁、京都弁がグチャグチャの言葉もよく使っていたという。
復帰の南海戦は9安打、4四球と崩れながらも、5対4で逃げ切って完投勝利。さらに1カ月後、7月5日には名古屋戦(西宮)で、いまなお史上最多自身3度目となるノーヒットノーランを達成。ただ、戦後、すでに肩、ヒジが半分壊れた状態で、腕もやや下げての投球だった。それでも制球重視の技巧派として秋も好投し、年間では12試合登板7勝1敗、防御率2.59。巨人は春、夏(後半は満州開催)、秋、さらに年度優勝も果たしている。
翌41年5月には長く交際していた令嬢と結婚。同年の成績は9勝5敗、防御率はリーグ15位の2.05と今一つだったが、家庭の幸せもあってか(性格かもしれないが)、負けてもまったく引きずることなく、グラウンド外では笑顔が目立ったという。
しかし10月に「赤紙」、つまりは召集令状が来て2度目の兵役へ。その後、12月8日には日本軍が米国ハワイの真珠湾を奇襲攻撃。太平洋戦争が始まる。沢村はボールではなく、銃でアメリカと戦うことになる。
<次回最終回>
写真=BBM

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