画像: 「PKO問題」から「PK合戦」になり、最後は郭李建夫の不戦勝?【1993年8月28日】

「PKO問題」から「PK合戦」になり、最後は郭李建夫の不戦勝?【1993年8月28日】

同年の球宴で出場した外国人選手たちと。中央がパチョレックでその右がオマリー
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月28日だ。
「PKO」は、当然ご存じだろう。国連の平和維持活動の略で、紛争地帯への監視要員の派遣を意味し、一時期、それに日本が協力するかどうかで、大騒ぎとなった。
1993年、阪神タイガースでも「PKO」問題が勃発した。もちろん、政治も軍事も関係なく、この年、台湾からバルセロナ五輪のエース、郭李建夫(K)が入団したことで、すでに在籍していたオマリー(O)、パチョレック(P)の3人で一軍の外国人枠2人を争う、いわゆる「虎のPKO問題」が起こったのである。
将来性を期待しての入団だった郭李。当初はほかの2人が一軍、郭李は二軍が既定路線だった。それもそうだ。オマリーは前年の92年は打率.325でリーグ2位、同年、横浜(現DeNA)から移籍したパチョレックも打率.311、22本塁打、88打点とオマリー以上の貢献度を誇った。
しかし、この93年も最終的には首位打者を獲得するほど打ちまくって、まずは「一抜け」のオマリーに対し、パチョレックのバットが振るわない。
PKO問題からOが抜け、“PK合戦”とも言われ始めた戦いは、8月28日、郭李との入れ替えで登録抹消となったパチョレックが「体力の限界」を理由に退団を申し入れ、了承されたことで終わった。
「腰痛がひどく、痛み止めの薬で胃もやられた。こんな悪いシーズンになるとは思わなかった。ただ、こんな成績なのに、オールスターにファン投票1位で選んでくれたことには感謝しかない」
ただ、悲劇の主人公というわけでもない。2004年横浜の始球式で来日した際にインタビューしたとき、「引退後は1年だけ阪神の在米スカウトをしたが、その後は特に何もしていない」と言っていた。ジャパンマネーがまだまだ強かった時代の在籍だけに、しっかり稼いでいたということだろう。
写真=BBM

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