画像: 全力で戦い続けた男。掛布雅之のトラ人生

全力で戦い続けた男。掛布雅之のトラ人生

9月10日、阪神・掛布雅之二軍監督の今季限りでの退任が発表された。現役時代と同じ背番号「31」を着け、甲子園で行われた二軍戦では1万人超の観客が詰めかけるなど、今なおファンから絶大の人気を受けた。まさにミスター・タイガースと言える男の現役時代とは――。それは、まさに全力疾走で戦い続けた野球人生だった。
“テスト生”からスタート
15年間の現役生活で349本塁打をマークした
天国と地獄......。ミスター・タイガースと呼ばれた男は、なぜかみな、その両方を味わう運命にある。体をねじ切るような渾身のスイングで、通算349本のアーチを架けた“4代目”も例外ではなかった。
習志野高では2年夏に「四番・ショート」で甲子園に出場したが、3年では届かず。小柄だったこともあり、プロの誘いはなかった。父親が知り合いのツテで阪神の安藤統男に相談し、秋季キャンプに参加。これがいわばテストだったが、当時の金田正泰監督のメガネにかない、1973年秋のドラフト会議では6位で指名されている。
契約時は背番号が決まっておらず、自主トレが始まってから「31」と告げられた。のちONの2人、長嶋茂雄の「3」と王貞治の「1」から、あるいは人の3倍の努力をし、1番になれ、という思いを込めてとも言われたが、掛布は「すべて後付けです」と笑う。
キャンプは安芸には連れて行ってもらえず、甲子園での居残り組からスタート。初めて一軍の練習を見たとき、周囲の選手がみな化け物のように大きく見えた。
「特に田淵(幸一)さんは、2メートルくらいあると思ったくらい(実際は186センチ)。俺の入るべき世界じゃなかったのかなと不安になりました」
しばらくしてから田淵に「僕は、こんな小さい体で、プロでやっていけますか」と質問したことがある。田淵は「大丈夫。プロは小さくてもうまくなれるから面白いんだ」と言って、自分のバットをプレゼントした。掛布はバットと、その言葉を宝物のように大切にしたという。
オープン戦途中、チャンスが舞い込む。ショートの藤田平が結婚式で試合を欠場、控えの野田征稔が母親を亡くし帰郷したことで、二軍から呼ばれたのだ。代打で結果を出し、遊撃のスタメンに入った試合でも打ちまくって開幕一軍を手にした。
天性のリストを生かした強烈なフルスイングは、他球団の選手からも注目された。中日・星野仙一はのち「初対決はセカンドゴロに打ち取ったはずだが、1球目、ものすごいスイングでファウルチップ。コイツは大物になると直感した」と話す。
すぐレギュラーに定着したわけではない。同期のドライチ、中大出身の佐野仙好と三塁のポジション争い。2人は連日、この年からコーチとなった安藤の猛ノックを受けた。猛練習に疲れ果て、試合中に居眠りをし、こっぴどく怒られたこともある。球宴では途中発表ながら三塁手部門で掛布2位、佐野3位の時期もあった。最終的には掛布の三塁出場が40試合、佐野が39試合で終わっている。
一歩リードしたのが、翌75年途中だった。首脳陣にアピールしたのは長打力だ。通算では11本ながら9月に4試合連続ホームランもあった。ただし、守備では大事な場面でのエラーも目立ち、佐野との闘いに完全に勝利したわけではない。
若虎フィーバー起こる!
78年の球宴第3戦では史上初の3打席連続本塁打をマーク
決着は76年。キャンプから好調を維持し、佐野を外野に追いやった。開幕後も打ちまくって人気爆発。甲子園には「カケフ」の大コールが響き渡り、応援席には大横断幕や「31」が入った大きな旗が振られた。その熱狂的な応援は、やがて甲子園名物となり、歓声の大きさは主砲の田淵を上回った。
21歳、ふだんは純朴な笑顔を浮かべながら、打席では野獣のような目に変わる若虎に、みな魅了されたのだ。若い女性ファン、さらに少年少女ファンが多いのも特徴だった。77年には『GO! GO! 掛布』というレコードが売り出され、関西の“掛布フィーバー”は社会現象となっている。ベストナインも手にした。
結果を出しても、練習量は変わらない。酔って帰った日も合宿の屋上でバットを振った。それも毎晩1時、2時まで。そこから冷めかけた風呂に入り、汗を流して寝るのが日課だったという。
「自分には練習しかない。練習すればなんとかなる。それを信じてやっていました」
まさに練習の虫、いや練習の鬼だった。
77年は開幕のヤクルト戦で、松岡弘から初回に満塁弾。「プロの怖さを感じながら立った初めての打席でした。それだけに結果を出せたことは自信になりましたね」と振り返る一打だ。その後、死球禍で左手首にヒビが入り、離脱もあったが、復帰後は首位打者にも迫っている。
78年には球宴第3戦で史上初の3打席連続本塁打を放ち、セの長嶋茂雄監督が「掛布君は本当のスターになった」と絶賛。しかし、実は球宴前に頭部に死球を食らい、どん底の時期があった。恐怖心が植え付けられ、打席で踏み込めなくなったのだ。ヒットがまったく打てず、打率が急降下。その恐怖を払拭するまで徹底的にマシンで打った。相手をしてくれたのが遠井吾郎コーチだ。1週間、アドバイスすることもなく、何も言わず、球を拾い、マシンにセットした。掛布は「我慢の大事さを教えてくれたのだと思う。感謝しています」と語る。その後、4打数連続本塁打もあってホームランは32本に達した。
宿命のライバル、江川卓
江川に対しては最高のスイングで挑んだ
そのオフ、阪神に衝撃が走る。田淵が追い出されるように西武に移籍。直後、直接電話があり「最後までタテジマのユニフォームを全うしろよ」と言われた。79年にはホームラン王。しかも打率は4年連続3割台で、リーグ2位の.327だ。達成感とともに、不振時にはあらためて田淵の存在の大きさを感じた。
「打てなかったときの敗戦を、僕の見出しで表現される新聞の一面を見たとき、これなのかなとは感じました。打って見出しになるのは、ある意味、誰でもなれるんです。でも、4つ三振して見出しになるのは......。そのとき、これが田淵さんのやってきてくれた、チームの若い人を守るということなのかなと思った」
7月7日の巨人戦(後楽園)では運命の初対決があった。同学年の江川卓である。このとき掛布には、江川のストレートをどう打ち崩すかしか、頭になかった。それだけに初球にカーブが来たときは、多少がっかりしつつ「怖がっているんだな、勝った」と思った。最後もカーブをとらえ、ホームラン。江川はいまもなお、「やり直せるなら初球にストレートを投げたい」と悔やむ一球だ。
その後、掛布と江川の対決は阪神-巨人戦の目玉となった。安藤監督時代、江川の高めは打つなとミーティングで徹底していたが、掛布に対しては「お前はそれを打て。ファンはお前と江川の1対1の勝負を喜んでくれるんだから」と言っていた。現役時代の2人がじっくり話すことはなかったが、より濃厚な会話が白球を通じて交わされていた。
「江川が振りかぶったときに勝負球と分かる、そういう間(ま)があった。そのインハイへの浮き上がるような最高の球は、僕の最高のスイングじゃなきゃ打てない。やるかやられるか。江川だけじゃないですよ。そのピッチャーのウイニングショットを打つのが四番の役割ですから」
この年の48本塁打は、初代ミスター・タイガース、藤村富美男が持っていた46本(49年)を抜く、球団最多記録でもある。
「阪神の四番」は自分の宿命
84年は宇野(右)とホームラン王を分け合った
しかし、80年は左ヒザじん帯損傷、さらに腰痛に苦しみ、低迷。ちやほやしてくれたマスコミが手のひら返しでたたき、球場では「千葉に帰れ!」「お前なんてトレードで出て行け」とファンの罵声が飛んだ。球場だけならまだ我慢できたが、家にもイタズラ電話、ナイフ入りの手紙、自分だけでなく、新婚の夫人へのいやがらせもあった。オフになると新聞に南海へのトレード報道が大々的に載った。心ない記事を見るたび、その新聞の担当記者とケンカ。「僕は本当に心を許した人じゃないと本音をはけなくなった」ともらした。心身ともにボロボロになっていた。
翌81年、掛布は一つの賭けに出る。ホームランを捨て、徹底的にヒットにこだわることだ。
「僕は中距離ヒッター。それまで四番になったことで、長打も意識したけど、この年は素の掛布で野球をやった。これで20本のホームランと3割3分以上の率は確実に残せることが分かった。これが本来の自分、原点だと。本当は、その後もあのままやっていたらとも思うんですが」
しかしながら、23本塁打に対し、ファンの不満の声を聞き、あらためて「ホームランを打たないと許されないんだな」と考えた。以前とは違い、「阪神の四番」を自分の宿命と思っていた。田淵がそうだったように、それを全うしようと思った......。
あらためて打撃改造に取り組む。
「僕はこの体だし、ホームランは狙わないと打てない。だから球の下、数ミリ単位でバットを入れられるかどうかにこだわった。それでボールにスピンをかけるんですね」
82年は本塁打、打点の2冠。引っ張りだけではない。浜風を味方にしたレフト方向へのホームランも多かった。「掛布アーチ」とも言われ、のちにバースも参考にしたものだ。
84年には中日・宇野勝と並ぶ37本で、3度目のホームラン王。終盤には10打席連続四球のセ・リーグ記録もあり、物議をかもしたが、当時の掛布はタイトルにそれほどこだわったわけではない。むしろ、入団以来、経験のない優勝に飢えていた。
天国、そして地獄......
85年には念願の日本一に輝いた(左は岡田、右は真弓)
翌85年、ついに夢がかなう。阪神は21年ぶりの優勝、さらに2リーグ制初の日本一。序盤にはあの「バックスクリーン3連発」もあり、史上最高の打線と言われた。掛布は全試合で四番に座ったが、それまでとは違う感覚で打席に入っていた。自分で試合を決めるだけではなく、三番・バースと勝負させる強い四番であり、好調な五番・岡田彰布につなぐ四番。ホームランを打ちながらも、四球も選び、出塁率もいいという2つの両立だ。それは見事実現。三冠王のバースには及ばなかったが、40本塁打、打点も108をマーク。リーグ最多の四死球97も誇れる記録だ。
「あのメンバーの中で必要とされる四番としての役割を果たすことができたかなという思いはありました。我慢もありましたが、優勝というものを手にすると、心地のよい、自分なりに意味のある、意義のある野球ができたのかなと思っています」
30歳、プロ12年目で初めて味わう快感だった。81年からの全試合出場も5年に伸ばし、自身もチームの黄金期を迎えたかに思われた。
しかし......翌86年、春先にバースが体調を崩し、一時離脱。竹之内雅史コーチから「お前が踏ん張らんと連覇は危ないぞ」と言われ、少し気負った。その向かっていく気持ちがアダになったのか、4月20日の中日戦で死球を受け、左手首を骨折。責任感もあって、完治の前に出場したのも響き、調子が上がらず、さらにケガも相次いだ。チームは3位。優勝を逃した責任を一身に負い、苦悶した。
以後、腰痛の悪化もあって低迷が続く。88年にはシーズン途中で突然の引退表明。多くの球団からラブコールを受けたが、田淵の言葉もあり、タテジマで終わる道を選んだ。
ミスター・タイガースと呼ばれ、まばゆいまでのスポットライトを浴びたが、その分、多くのバッシングも受けた。それを受け流し、個人の成績のみに集中する生き方もあったが、掛布はファンやマスコミの批判からも、四番の責任からも逃げなかった。真っ向から受け止め、多くの傷を負った。
練習を信じ、努力を信じ、妥協することなく這い上がってきた男だからこそ逃げなかった。いや、逃げられなかったのだろう。逃げたら、自分じゃなくなってしまうからだ......。戦い続けた、まさに全力疾走の15年間だった。
写真=BBM

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