画像: 【キセキの魔球12】非情のメジャー通算イニング999回

【キセキの魔球12】非情のメジャー通算イニング999回

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語──。
ビリー・ビーンの右腕だった男
2007年6月、大家はブルージェイズから戦力外通告を受けた
先発登板したピッチャーが翌日クビになるのは、メジャー・リーグでは珍しいことではない。とくに、旧態依然の球団経営を否定し、サイバーメトリクスを駆使して、合理的なビジネス原理で動くGM(ゼネラル・マネージャー)ならば、なおさら容赦なく選手を動かすだろう。
2007年6月、大家友和はタンパベイ・デビルレイズ戦に先発した翌日、トロント・ブルージェイズから戦力外通告を受けた。
当時のGMはJ.P.リッチアーディ。マイケル・ルイスのベストセラー『マネー・ボール』の主人公、オークランド・アスレチックスGM(当時)ビリー・ビーンの右腕だった男だ。00年、カナダの大手通信会社ロジャーズ・コミュニケーションズがブルージェイズを買収したとき、経営改革の切り札として引き入れたのが、当時アスレチックスの選手管理部長のリッチアーディだった。就任してすぐ、彼は古株25人のスカウトを解雇し、ベテランの高額選手を放出して若く安い選手と入れ替えた。
非情な選手放出のたとえは『マネー・ボール』にも描かれている。トレードで獲得した選手にイスを用意するため、前の晩に敗戦投手となった37歳のマイク・マグナンテという救援投手を解雇している。マグナンテはあと4日でメジャー実働10年となり、年金を満額受給する資格を得る寸前だった。解雇通告を担ったGM補佐がビーンに報告を入れる。「マグナンテは今ちょうど、メジャー最後の投球練習を終えました」と。37歳の投手が他球団に拾われる可能性は低かった。
リッチアーディは、ビーンのことを「あの人はまるで“サメ”のようだ」と言った。狙った獲物は逃さない。マグナンテの人生にとって重要な4日間は、ビーンにとっては立ち止まる理由にもならない。そして、ビーンの哲学を共有するリッチアーディもまた、もう一匹の“サメ”だった。
06年のオフシーズン、リッチアーディは大胆な動きでブルージェイズ打線を固めている。外野手バーノン・ウェルズと7年間1億2600万ドルの大型契約を結び、強打者フランク・トーマスを2年1800万ドルで迎え入れた。
先発陣は、エースのロイ・ハラデイとA.J.バーネットをいずれも4年先までの長期契約でローテーションの柱に据えている。07年を迎えるにあたって新たにFAから1年契約で獲得したピッチャーは全部で3人。そのひとりが大家だった。
鋭く読み取ったチームの方向性
前年、06年途中に肩のローテーターカフ(回旋筋腱板)を痛めていた大家は、この年のオフは万全な態勢でリハビリとトレーニングに取り組んでいた。10月に日本へ帰国するとすぐに肩の状態をチェックした。肩の筋力、可動域、力の出具合、そしてどういう痛みがあるのかを念入りに調べ上げた。その結果、肩にゆるさがあることと、インピジメント・シンドローム症候群といって、肩と腕の骨の間に筋肉が挟み込まれて炎症を起こす症状がみとめられた。オフのメニューは、例年のトレーニングに加え、リコンディショニングといって、最高のパフォーマンスを実現できる高い身体機能を回復するためのメニューも盛り込まれた。
大家には彼のことを10代から知るトレーナーと整体師がいる。この二人は、立ち姿ひとつ見ただけで、彼の精神状態と投球の特徴をおおむねつかむことができた。
「体を見れば、その人が投げる球のタイプが分かります。大家君の場合は、体が均等なので、コントロールとキレで勝負するピッチャーです。投球が変化したのは、彼の体が変わっていったからなんです。体が要求する投げ方をしていれば、自然とそうなる。その逆はありません」
この整体師は、10年前の横浜時代との違いを知っている。大家の心の成長が体にはっきりと現れていた。
「いちばんの違いは、真っすぐに立てることです。昔は、感情の変化やストレス、フラストレーションなど、イライラが体を固くさせたり、形になって出ていました。でも、今は真っすぐ、スッと立てています。真っすぐ立っていないと気持ちが悪いと本人が言いますから。マイナー時代は、所属先が決まっていても落ち着かないことがあったのに、今はまだ(所属球団が)決まっていないでしょ。大人になったなあと思います。自信もあるし、リスペクトもされて」
2月下旬、フロリダのタンパ近郊でブルージェイズの春季キャンプが始まった。メジャー・キャンプに集められたピッチャーの数は、支配下40人枠の23人と、招待選手6人の合わせて29人。この中からメジャー開幕ロースターに入れるのは先発5人と、中継ぎ6人から7人となり、多くても12人だ。
さすがはメジャー9年目となる大家は、キャンプ合流数日でチームの方向性を鋭く読み取っていた。
「若いピッチャーを使っていこうというのがよく分かります。僕の成績次第ということもあるけれど、若いピッチャーを使わないとチームのお金のこともあるし、将来のこともあるし、野手はなんとかなるチームなので、あとはピッチャーを若い人にシフトしていけば、少しの間は勝てる」
たまたまこのとき、ビリー・ビーンの話をしている。選手時代のビーンが、自分の競争相手だった選手のほうが才能も心意気も上だと認めてしまったという話題だ。
「僕も、認めるけどね。でも、僕には僕のやり方としてあるから。いつも(僕を)見てれば分かる、ってところですかね。僕にも意地があるから。このままで終わるわけにはいかないし、終わるはずがないし......」
猛威をふるいだした“サメ”
先発ローテーションを勝ち取った大家は、シーズン序盤、3週間に3度、古巣ボストン・レッドソックスと激突した。5月9日、3度目の対戦でメジャー・デビュー1カ月の松坂大輔(現ソフトバンク)と当たっている。日本人先発ピッチャーの対決は史上4回目のことで、大家はモントリオール時代にカンザスシティーのマック鈴木と投げ合った。レッドソックス戦の舞台となったトロントには再び“マツザカ・マニア”の大群が押し寄せた。
ブルージェイズは7連敗中だった。GMのリッチアーディがのんびり構えているはずもない。大家はそれまでメジャーで投げてきた180試合と同じように、チームが勝つために181試合目のマウンドに立つだけだ。
「力んだって、100マイルは出ないんだから。外角低めは、外角低め以外ないんだし、どんなに力んだって、いいコースはそこでしかない。それ以上のコースを探そうなんて、無理でしょ」
松坂との試合の日、大家は2回以降、さらに腕を強く振るよう意識している。
「そうですねえ、ちょっとよくなかったですねえ。まるきりお手上げですっていう状況にはならないようにしましたけれど」
例えば、一度壊した肩の不安は常に彼を脅かしていたのだろうか。レッドソックス時代のチームメートだったペドロ・マルチネスは、ピッチャーは誰しも何かしらの故障を抱えているものであり、本当に調子のいい状態は1年間に3回あればいいと言った。大家の肩の具合はどうなのか?
「僕は、痛いと言いながらは投げてないですけど、どうかなあ、体、う〜ん、違和感が多少ある日はあるし、ない日もあるし、だから何? って感じですけど。体が重いなあ、だるいなあと思っていても、いい結果が出る日もあるし」
レッドソックス3回戦で勝ち投手になったのは松坂だった。結局、ブルージェイズの連敗は9つまで続いた。ビリー・ビーンの哲学によれば、一つのシーズンにはその中にまたいくつかのシーズンがある。つまり、チームの立て直しのことだ。リッチアーディはシーズン最初の大掛かりなテコ入れに乗り出した。それはそのまま大家にとっての不穏な動きにつながる。十分すぎるくらい怪しい雰囲気を漂わせ、“サメ”が猛威をふるいだした。
突然、メジャー・リーガーでなくなることとは?
戦力外となった大家に同僚のフランク・トーマスは「じゃあ、ニューヨークで」と声をかけた
松坂との対戦から1週間後、大家は突然、ブルペンに送られた。リッチアーディはその理由を、日程的に先発が5人必要になったら再びローテーションに戻すと説明した。もちろん、GMが真実を話すことはほとんどない。本当の理由は、ルーキーのジェシー・リックを上げるためだった。大家が自分がブルペン送りになったことを知ったのは、試合開始直前のダグアウトだった。登板のない日、先発ピッチャーはダグアウトで試合を見る。日本のように試合を見ずに帰ってもいい“上がり”はない。ベンチに座っていると、仲間が言った。
「おまえ、なんでここにいるの? おまえの名前、ブルペン・リストに書かれていたぞ」
その数日後、今度はニューヨーク州クーパーズタウンで行われる野球殿堂の奉納試合での登板を命じられた。先発でありながら、登板予定を告げられたのは試合のわずか2日前。アイシングする氷も用意されていない球場だった。
5日後の5月26日、ミネソタ戦で先発に戻り、好投する。その後10日間、登板機会は巡ってこなかった。6月6日、タンパベイ戦に急遽、先発起用される。このときは、当初投げる予定のバーネットが、それまでの2試合で242球という異例の球数を投げたことで、1日余分に休養日を与えるためだった。大家はこの試合、3回3分の1を投げて、被安打10、自責点5と、打ち込まれた。
翌6月7日。リッチアーディはついに鉈(なた)を振るった。ブルージェイズは大家を40人枠から外すと発表した。事実上の戦力外通告である。01年にモントリオール・エクスポズに移籍してから約6年間、大家は一度も途切れず、ずっとメジャー・リーガーだった。1999年の渡米から、所属チームがなくなったことは一度もない。
「大変なことは何もありませんよ。まったく問題ありません。そのうちどこかで投げていると思います。どこか分かりませんけれど」
ある日突然、メジャー・リーガーでなくなるとはどういうことなのか。
革張りのソファが並ぶクラブハウスにはもう足を踏み入れることは許されず、当然、球団施設でトレーニングもできない。昨日まで、カナダでいちばん高い塔であるCNタワーの麓の立派な球場で、上等なユニフォームを着て喝采を浴びていた選手は、翌日から、トロントの街中のなんの変哲もない公園で球を投げるようになった。大家は、その近所では、“とんでもなく速い球を投げる兄ちゃん”として有名になった。
チームが一人の選手を40人枠から外すには、主にトレード、マイナー降格、そして自由契約の3つの方法がある。まずチームは選手をDFA(Designate For Assignment)に置き、いわゆる戦力外通告して40人枠から外し、目当ての選手のための席を確保する。そして10日以内に他球団とのトレードを画策するか、あるいはマイナーへ降格させる。メジャーでの実働5年以上の選手に対しては、選手の承諾なくマイナーに落とすことはできない。無論、そうした選手に対しては、チームは何度でもメジャーとマイナー間を昇降格させられるオプションを持っていない。大家は実働6年以上でFA権を持つ選手だ。無条件にはマイナーに落とせない。もっとも大家にしてみたら、メジャーでの登板機会が見込めない球団のマイナーで投げる意味は、ゼロに等しい。一刻も早くトロントを出て、新たなチャンスをつかむ、それしかない。
チームを去ることになった大家に、フランク・トーマスが言った。
「じゃあ、ニューヨークで」
多分、トーマスはこう言いたかったのかもしれない。どこかのチームがきっとおまえを必要としている。ヤンキースあたりも先発が欲しいだろう。こんなやり方をしたブルージェイズを、敵チームのマウンドに立って叩きのめせと。
結局、期間内にトレードは成立しなかった。もしトレードで彼を獲得すると、移籍先の球団は交換要員をブルージェイズに渡すか、金銭的保証を負うことになり、この時期にはあまり動かないのだ。そして6月18日、大家は、無条件の自由契約選手となった。それは彼の望むところでもある。数時間後、セントルイス・カージナルスが大家に接触してきた。2週間限定のマイナー契約を結び、傘下の3Aで2試合に投げて結果が良ければメジャーに昇格させる、という条件だった。2日後の3Aメンフィス・レッドバーズ戦に先発が決まった。
ただちにアメリカ南部テネシー州メンフィスに飛ぶ。2度目に登板したナイターのあと、立ち寄った食堂のテレビ画面で大リーグ中継をやっていた。映し出された一人の投手は、大家とほぼ同時期にブルージェイズが放出したジョン・トムソンだった。ブルージェイズでは一度もメジャーのマウンドに立っていない。ところがFAになったトムソンをカンザスシティー・ロイヤルズが拾った。しかもメジャーのユニフォームを着たトムソンはその晩、勝ち投手になった。
「あいつがあそこで投げてて、なんでオレが今、ここにいるんだよ」
ブルージェイズで投げた最後の6月6日時点で、大家のメジャー通算投球イニング数は、1000回にあと1イニング足りない、999回。
せめてあと1イニング投げさせてやりたいと、“マネー・ボール”を操るGMのリッチアーディが思うはずもなかった。
<次回9月20日公開予定>
文=山森恵子 写真=Getty Images

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