画像: 【キセキの魔球14】パンク・ロック歌手の投手コーチが支えた、悲願のメジャー通算1000回

【キセキの魔球14】パンク・ロック歌手の投手コーチが支えた、悲願のメジャー通算1000回

2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語──。
メジャー昇格も厳しい環境に置かれ
インディアンスで2年ぶりにメジャー復帰を果たした大家結んだ
ついに、その日はやって来た。
2009年5月28日、大家友和はクリーブランド・インディアンスで2年ぶりにメジャー復帰を果たした。
エージェントから昇格の報せが入ったのは深夜になってからだった。翌日、インディアンスは正午から本拠地でのデーゲームを控えていた。傘下の3Aの拠点コロンバスからクリーブランドまでは約150マイル(約241キロ)。クルマで2時間ほどの距離だ。朝7時にクラブハウスに寄り、必要な物だけをバッグに詰め、クルマを運転して高速道路を北上した。クリーブランドは五大湖の一つ、エリー湖のほとりの都市だ。インディアンスが本拠地とするプログレッシブ・フィールドは市の中心街にそびえていた。
「メジャーの球場って、こんなに大きかったかなあと、びっくりしました。あまりに久しぶりで、忘れていました」
インディアンスのユニフォームに袖を通す。マイナーとは生地の厚みや感触、質が全然違った。
「それはもう、何とも言いがたいものがありました」
しかし、メジャーに昇格しても置かれた環境は厳しかった。エリック・ウェッジ監督からはっきりと言われている。
「ここにいるのは1日かもしれない。1週間か、もしかしたら1カ月かもしれない。先発かもしれないし、中継ぎかもしれない。何も約束はできないよ」と。
その年、大家は、インディアンス傘下の3Aコロンバス・クリッパーズでシーズンをスタートさせている。オハイオ州の州都コロンバスを拠点とするクリッパーズは、2009年からインディアンス傘下となり、総工費4000万ドルをかけた新球場、ハンティントン・パークが完成した。
大家はここで先発の一人としてメジャー昇格までの7週間を過ごしている。3Aのシーズン開幕はメジャーから3日遅れの4月9日。その2日後、早くも一人目のピッチャーが3Aからメジャーへ呼ばれていった。その数日後にさらに一人。開幕からわずか1カ月で5人の投手が呼ばれるという異例の事態となった。
それは、インディアンスにとってC.C.サバシアのいない10年ぶりのシーズンだった。先発の柱であるジェイク・ウエストブルックは長期の故障者リスト入りで、当分戻ってきそうになかった。それでも前年サイ・ヤング賞投手のクリフ・リーと、2年前のリーグ防御率2位のファウスト・カーモナ(のちに本名のロベルト・ヘルナンデスに改名)がいる。抑えにはケリー・ウッドでほぼ安泰。そんなインディアンスの目論見は外れた。開幕から7週間で、12人にいたピッチャーの半数がケガやマイナー降格で出場枠から姿を消した。この期間の投手の入れ替えは全部で25回、述べ15人に及んでいる。まさに危機的状況である。
5月になり、チームは支配下40人枠以外の選手も呼び寄せるようになった。その枠を空けるため、マイナーへ降格された一人が小林雅英(現ロッテ投手コーチ)である。
日々繰り返される選手の入れ替え。仲間の3Aの若手が次々と昇格を果たし、メジャーからは選手があぶれ落ちてくる。その狭間で3Aで投げ続ける33歳のベテラン、大家。
「人の結果が悪いのを望むんじゃなくて、僕もいいし、みんなもいいし、その中で僕がライバルより少しいい、みたいな。そうでないと、ひねくれてしまいますよ。気持ちを切らさないでやっていく以外、僕のやれることはなかった。あそこで集中力や気持ちがキレていたら、終わりですから。ただ、自分自身のこれからの野球選手としての技術、体力、気力も含めてどういうふうになっていくか模索し続けていたので、キレることはなかったけれど、自分の限界がどこまでか分からなかった」
2007年6月にトロントから戦力外となり、突然、メジャー・リーガーでなくなったあの日から、マイナー・リーグで投げ続けた2年の日々、彼の脳裏にはいつもメジャーのマウンドに帰る自分の姿があったのだろうか。
「毎日、自分が投げる順番が来て、毎日、その登板に合わせていくことしか考えてなかったです。もしかしたら、去年(ホワイトソックス傘下3A時代)の4月、5月はもっと先のことを自分で見ようと思っていたのかもしれない。でも、僕には目の前の仕事をこなす必要がありました。どのピッチャーと比較しても僕が使われる順番は限りなく後ろのほうだったと思うし、アクシデントがあってたまたまもらえたチャンスでした」
1000イニングの壁を越えるまで720日
当初、彼は自分が3Aで中継ぎ起用されると思っていた。走り込みではブルペン用のメニューをこなした。ところが、3Aのコーチ陣に上層部から指示が下る。オオカに先発用の調整をさせておくようにと。
大家を支えたのは、スコット・ラディンスキーという名の3Aの投手コーチだった。元はメジャーで10年投げたピッチャーで、カリフォルニア生まれのパンク・ロック歌手でもあり、地元でスケートボード・パークを運営するというファンキーな顔を持つ。その一方で、悪性リンパ腫の一種、ホジキン病を克服してメジャー復帰を果たした不屈の人だった。
「インディアンスがそろえた先発投手陣の耐久力には限界があると思った。そうなれば3Aのピッチャーが必要になる。ここにもいいピッチャーは大勢いるさ。だが、みんな若い。トモにはメジャーで投げてきた経験がある。もしもチャンスが巡ってきたら、ここの最高のピッチャーであるトモの出番だ。まずは最初のチャンスで結果を出す。そうすれば2度目のチャンスが巡ってくるかもしれない。次の出番でもよければ、さらに次の機会もものにする。4、5回続ければ、これでイケると思えるようになるだろう。彼は非常に頭がいい。速い球をほうることではなく、ピッチングを考えている。4シーム、2シーム、カッター、スプリット、この4つの球種でストライクを取る。制球もいい。記憶力も抜群だ。根っからの先発投手だ」
上層部から、誰を昇格させるべきかと聞かれ、ラディンスキーは、オオカ、オオカ、と言い続けた。実は、彼はこのときの大家の年齢33歳で現役を引退している。
「腹の底から闘志が湧き上がるなら、続ければいい。そうでないなら、やめたほうがいい。トモには闘志がある。俺には、その炎を絶やさないように支えてくれる人がいなかった。だからトモを応援したくなる。そうだな、それが俺と彼とのつながりなのかもしれない。彼の中に、それと似た自分を見ている。誰も自分を信じてくれる人がいない、そんなとき、たった一人でいい、信じてくれる人がいれば走り続けられる」
メジャー復帰戦は、昇格した2日後の5月30日、ヤンキース戦だった。2年前に止まったままのメジャー通算イニング数999回を再び進めるときだ。この日のインディアンスの先発カーモナは、4回まで7失点と大きく崩れて降板した。そのあと5回から送り込まれたのが大家である。2年ぶりに戻ったメジャーのマウンド。しかし彼は落ち着いていた。最初のバッターは六番、ポサダ。チーム打率の高いヤンキース戦を前に、ポサダ戦略の話し合いが持たれていた。そのプランどおりにピッチングを進めて行く。2ストライクと追い込んでから、一塁ゴロに仕留めた。次は、初顔合わせとなる七番、松井秀喜だ。カウント2-2からの6球目をセカンドゴロに打ち取る。そして3人目のバッター、ニック・スウィッシャー。
「1000イニング目の最後のアウトはファーストゴロで、自分がトスを受けてベースを踏みました。自分がボールを受けて、そのボールは自分の手の中にありました。それは、なんとも言えない幸運というか」
1000イニング目に、奇しくも松井と初対決したことについて、彼はこう語る。
「目の前の打者と対戦して抑えるということ、頭の中にはそれしかありませんでした。メジャー・リーグでの登板で、自分はチャンスをもらって試されているわけです。結果を出さなければそこには残れない、もちろん結果を出しても残れない場合もあるのは理解しています。でも、結果を出すことは自分がコントロールできる唯一の手段です」
999イニング目から1000イニングの壁を越えるまでかかった月日は720日。
「それだけ離れていたかなあとは思います。そんなに時間がかかると思ってなかったというか、それほど時間をかけずに、もっといいピッチャーになりたかった」
プロフェッショナルな仕事
インディアンスでメジャー昇格後、大家は18試合に投げ、1勝5敗の成績だった
たった1日でもいい。大家友和はメジャー・リーガーに戻りたかった。彼には戻る必要があったのだ。
「僕に必要だったのは、メジャーで投げた事実でした。肩がどうにかなっているとか、球のスピードが落ちているから互角に戦えないんじゃないかといった、僕の健康状態の心配に対して、まだメジャーでやれるんだと示したかった」
マイナーでの日々はなかなか昇格できず、悩み、苦しかった。だが、念願のメジャーに上がれば別の脅えが待っていた。打たれたら、明日はない。
「いつ、何を言い渡されてもおかしくないんで、他の人がマイナーに落とされたり、ウェーバーにかけられたりしていくなかで、正直、9月1日(拡張9月ロースター開始日)までありました。久しぶりの強い緊張感でした」
結局、大家友和は、5月28日の昇格からシーズン終了までインディアンスの出場枠25人から一度も外れることはなかった。この年、彼の役回りはロングリリーフという、それまでに経験したことのない仕事だった。主には先発が大量失点を許し、試合の前半で大方の勝負がついた場面で放り込まれ、長いイニングを消化する。それは、リリーフ登板が過多になりがちな他のピッチャーを守るためでもあった。緊迫した試合で、中継ぎ投手たちに最高のピッチングをしてもらうための役割だった。
「今日のためでなく、明日、勝つためにお前が必要だと、そうチームからは思ってもらっていると、僕はとらえていました」
いつ行くか分からないという、出番の前触れがないのは、他の中継ぎと同じだった。しかし、ロングリリーフの調整が難しいのは、登板が1~2イニングではなく、常に長いイニングを投げる準備をすることだ。体力を維持しながら、毎日ただ待つ。先発の場合はローテーションの合間にブルペンへ入って投球練習する日にちが決まっている。だが、ロングリリーフはそれが定まらない。ピッチャー全員のコンディションを把握し、不調の先発の登板日に自分の出番の可能性を想定し、最適な投球練習日を弾き出す。待ってようやく手にした自分の出番。だが、大家は、それよりもっと尊いものがあると言った
「だって、面白くないでしょ。僕が投げるということは、チームが大量失点で負けているということですから、本音を言えば、僕の出番なんてないほうがいいんだし、先発がそこそこ投げて、ちゃんと投げるべく人がつなげて、チームが勝ってくれたほうがいいです。だって、僕が投げ終わったらチームは負けているから、どんなに内容が良くても喜ばれへんでしょ」
インディアンスで投げた4カ月間、ある時は先発として、またある時は敗戦処理的なロングリリーフとしてマウンドに立ち続けた。2009年10月4日、この年のインディアンス最終戦で、大家は2カ月半ぶりの先発を任されている。
翌日、シーズンを終えてクリーブランドの球場でロッカールームの片付けをした。一人の番記者が大家に握手を求めてきた。彼の目を見て、記者は言う。
「ほんとうに、プロフェッショナルな仕事ぶりでしたよ」
ありがとうございます、と答える大家。
「プロに徹しないとできない仕事ではありました。ただ、先発できないからそんなことしていると言われれば、それは絶対に違うと言えます。どんな仕事であれ、プロとしてどうあるべきかで臨まなければなりません。それは僕の中では当たり前のこととしてあるし、それがなければ、モチベーションも気持ちも保てなかったと思います」
インディアンスの先発としてマウンドに立ったのは、ボストンのフェンウェイパークでのレッドソックス戦だった。ちょうど10年前、彼がメジャー・デビューを果たした場所だ。大家はフェンウェイに戻ったのだ。そして、これが大家友和にとって生涯メジャー最後のマウンドになった。
<次回10月4日公開予定>
文=山森恵子 写真=Getty Images

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