画像: “マサカリ投法”村田兆治、最後の登板【1990年10月13日】

“マサカリ投法”村田兆治、最後の登板【1990年10月13日】

最後は“完封”
万感の思いを胸に仲間たちとファンへの感謝を語る村田
球史には数多くの鉄人がいるが、この男は別格だ。鉄腕・村田兆治、67歳となってなお、130キロ台の速球を投げる文字どおり“スーパーマン”である。
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月13日だ。
1990年10月13日は、ロッテ・村田兆治の引退試合である。
若手時代から剛速球を武器に頭角を現し、誰もマネできない豪快なフォーム“マサカリ投法”、さらには“魔球フォーク”の習得により、超人化を進め、リーグを代表するエースとなっていく。
ただ、本当の意味で村田の名が全国区となったのが、当時、投手にはタブーと言われたヒジの手術から奇跡のカムバックを遂げた84年終盤以降だ。
85年は毎週日曜の登板からスタートし、11連勝。不屈の闘志がファンの心を打ち、“サンデー兆治”の名は社会現象となった。同年17勝、200勝を達成した89年には、39歳にして最優秀防御率にも輝く。
翌90年、川崎球場での「引退試合」も壮絶だった。決して顔見せ的な登板ではない。先発し、初回からストレートでグイグイ押し、強打の西武打線を封じ込める。予定の5回まで無失点に抑え、その後、雨でコールド。秋の長雨で引退試合の予定が伸びていたが、その雨が最後に“完封”をプレゼントしたことになる。
“男の美学”を貫く
最後の試合もマサカリ投法で、全力で投げ抜いた
これはシーズン10勝目でもあった。40歳以上での10勝は若林忠志(阪神時代)以来、史上2人目の快挙でもあった。
試合後のセレモニーで、村田はマウンドに立てられたマイクの前に進み、まず深々と頭を下げた。
「私は今日をもってマウンドを降りることになりました。私の人生の喜びも悲しみも、すべてこのマウンドの上にありました。これまで投げ続けてこられたのも皆様のおかげです。心からお礼申し上げます。ありがとうございました」
球場中に「ムラタ」コールが鳴り響いた。雨模様の中、マサカリ兆治のラスト登板のために集まった2万2000人の大合唱だった。
「自分のイメージする球が投げられなくなった。とにかくプロとして恥ずかしくない終わり方ができました。それができたことに悔いはないと思います」
体を誰よりも鍛え、誰よりも酷使した村田。その苦労を見守ってきた夫人は、「これ以上、頑張れなんて言えません」と涙を見せた。
投球数83球、その1球1球が村田の魂の叫びのようでもあった。
「人生先発完投」
座右の銘どおりの最終登板まで、村田は男の美学を貫きとおした。
写真=BBM

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