画像: 近鉄12球団で最後の初優勝【1979年10月16日】

近鉄12球団で最後の初優勝【1979年10月16日】

選手たちが作った騎馬に乗る西本監督。感無量の表情だった
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月16日だ。
そのとき、西宮球場が揺れた。ビジターながら客席は半分以上が近鉄ファンだったという。
就任6年目、59歳の西本幸雄監督が、いつもの渋い表情を崩し、笑顔で、しかもボロボロと涙を流した。マウンドには20歳の山口哲治だ。色とりどりの紙テープが投げ込まれる中、近鉄ナインが一斉に山口へ駆け寄り、歓喜の輪ができる......。
1979年10月16日、近鉄バファローズが当時の12球団の一番最後で、リーグ優勝を手にした瞬間だ。
この年の優勝の原動力は、赤鬼と言われた助っ人大砲マニエル。「守れない、走れない」と、ヤクルト・広岡達朗監督に放出されての近鉄入りだったが、パのDH制に加え、西本監督の人柄もあった。2人はときに親子のようにも見え、マニエルはその潜在能力を爆発させる。
開幕からすさまじい勢いで打ちまくり、チームを前期のV軌道に乗せたが(当時は前後期制)、6月9日に死球を受け、離脱。結局、優勝を決めたのは、前期の最終戦、平野光泰の“魂のバックホーム”だった。この試合も名勝負だが、今回は触れずにおく。
後期は阪急に続く2位に終わり、迎えた3勝勝ち抜けのプレーオフだった。1戦目5対1、2戦目7対4と近鉄が連勝スタート。このときの立役者は、この年、最優秀防御率も手にしている山口だった。2試合ともヒットも四死球も許さず、セーブを挙げている。
迎えた西宮球場での第3戦は投手戦となり、1対1のまま延長10回に進む。表の攻撃では、近鉄が無死満塁とすると、阪急・梶本隆夫監督が送り出したのが、エースの山田久志だった。まずは平野を一飛、さらに小川亨も遊撃ゴロでチェンジと思われたが、阪急のショートが球を弾き、その隙にセンター前ヒットで出塁していた三走の梨田昌孝がホームに駆け込み、1点勝ち越し。その裏のマウンドに立っていたのは、7回途中から登板していた3連投の山口だった。
二死の後、福本豊にプレーオフ初ヒットを浴び、迎えた打者が巧打者・簑田浩二。ここで山口─梨田バッテリーは徹底したストレート勝負を選択する。7球連続で真っすぐ。簑田もファウルで粘り、1球はさんだカーブで福本が盗塁。二死二塁となった。
9球目、山口は真っすぐのつもりだったが、指に少しおかしなかかり方をした分、沈み、簑田のバットが空を切った。三振で山口は勝利投手となった。
のちの記事だが、西本監督が当時を振り返った言葉があった。大毎で1回、阪急で5回、近鉄で2回と、監督時代、何度となく、リーグ優勝を飾りながら一度も日本一には届いておらず、いつしか“悲運の名将”と呼ばれていたことに対してだ。
「長年、努力してきた若者たちが、目的に向かってわき目もふらず直進していく中で、パーッと輝いてくる時期がある。それがいまの近鉄だ。その場に立ち会えたワシは本当に幸せやと思う。ワシを悲運の男という人がいるが、そんなことない。こんな幸せを味わえる悲運の男がどこにおるんや」
写真=BBM

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