画像: 【日本S回顧01】大観衆がどよめいた小林とオマリーの14球【1995年】

【日本S回顧01】大観衆がどよめいた小林とオマリーの14球【1995年】

今年で68回目を数える日本シリーズだが、印象的な激闘は多々ある。ここでは過去の名勝負、名シーンを取り上げていこう。
「ミットとオマリーだけしか見えていなかった」
「こんな歓声をもらうなんて信じられない」と小林。14球の力投に誰もが魅入られた
延長11回裏、すでに時刻は22時を回っており、鳴り物は禁止されていた。3万人を超す大観衆のどよめきが神宮の杜にこだまする名勝負は、ここから始まる。
1995年10月25日、オリックス対ヤクルトの日本シリーズ第4戦。オリックスはこれまで3連敗と、絶体絶命の状況だった。この試合でも5回に先制される苦しい展開。それでも9回表に小川博文が同点本塁打を放ち、何とか延長戦へと持ち込んでいた。
延長10回からマウンドに上がった小林宏は11回裏、一死後に死球、左前打で一死一、二塁と一打サヨナラ負けの大ピンチを背負う。ここで迎えたのが四番のオマリーだった。シリーズ打率5割超えと絶好調。最も嫌な相手と対峙することになった。
右翼席を埋めるヤクルトファンはすでに大騒ぎ。一塁側ベンチ横にはトロフィーが並び、表彰式の準備が始まっていた。しかし、この状況下で小林は「(捕手の)ミットとオマリーだけしか見えていなかった」と最大限の集中力を発揮する。
1球目、129キロの内角スライダーをオマリーが見送ってストライク。2球目も140キロの内角直球で見逃しストライクを奪い、早くも追い込んだ。
そして3球目。小林は自ら「14球の中で最高のボール」と振り返る内角低めの145キロの真っすぐを投げ込んだものの、オマリーのバットはピクリとも動かない。際どいコースながら、判定はボールだった。
4球目から3球は、いずれも真っすぐを投げ込んでファウル。そして7球目、小林の投じた140キロの内角直球をオマリーがとらえると、ライト方向へ大飛球に。ライトフライだと思い、小林は三塁ベースカバーに走るが、右翼のイチローはフェンス際まで後退し、その打球は右翼ポール際に吸い込まれていった。
ポールの右か、左か――。一塁ベンチからはヤクルトの選手たちが飛び出したが、線審の手は左右に大きく開かれた。その誤差、わずか1メートルの大ファウルだった。
力が入り過ぎシュート回転したストレートが......
名勝負を演じた2人は互いの健闘をシリーズ終了後の表彰式で称え合った
「自分の持っているものをすべてぶつけよう」
小林はとにかく低めだけを意識して腕を振り続けた。ファウル、ボールの後、3球続けてファウル、そしてボール。球数は13球、カウントはフルカウントに達していた。
そして運命の14球目、137キロの真っすぐが投じられた。「体に力が入り過ぎた」と小林が振り返ったボールは低めへ。だが、それが幸いする。ボールがシュート回転するように落下。いまで言うツーシームだった。タイミングを外されたオマリーのバットは空を切り、緊張感あふれる勝負に、ついに終止符が打たれた。
続く古田敦也も中飛に打ち取り、小林は大ピンチから生還した。12回表にD.Jが右翼へ決勝本塁打、そして、その裏を小林が3人で抑え、オリックスがやっとのことで日本シリーズ1勝を挙げたのだった。
平素はおとなしいが、どこかとぼけてつかみどころのない性格と、小林のことを周囲の仲間たちは言う。そんなユニークな性格と、物怖じしない気性が、この日の快投を生んだのかもしれない。
「開き直りってこういうことを言うんでしょうね。もう一度、神戸に帰りたい、その気持ちだけでした」と小林は言ったが、さらに「最初の2球で2ストライクを取ったことで、14球目まで行った。あの2ストライクで、やっとオマリーと対等な立場になったと思います」と小林はのちのインタビューで振り返っている。もし1ボール1ストライクだったら、打たれていた。名勝負を生み出したのは、最初の2球だったということだ。
この年の1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、オリックスが本拠を構える神戸市内も甚大な被害を受けた。この日本シリーズではいきなり3連敗と崖っぷちに立たされたが、「勝ってもう一度、神戸に帰りたい」という思いが、小林の背中を強く押したのだろう。
時間にしておよそ12分。日本シリーズの名勝負と言えば「江夏の21球」があまりにも有名だが、こちらの「小林とオマリーの14球」も、球史に残るものとなった。
写真=BBM

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