柔道が初めてオリンピックの正式競技となった1964年東京大会から昨年のリオ五輪まで、“柔道王国”日本は史上最多のメダルを獲得してきた。そして、その長い歴史の中で燦然と輝くのは卓越した技量で他を圧倒し、表彰台の頂点を極めた金メダリストたちだ。ここでは、53年前の各階級のレジェンドから直近の大野将平、ベイカー茉秋、田知本遥まで、『日本柔道オリンピック金メダリスト列伝』として1人ずつ紹介。まず今回は、64年東京大会男子80kg超級・猪熊功選手をクローズアップする。(※文中敬称略)

画像: 日本柔道オリンピック金メダリスト列伝【第1回】

1964年東京五輪男子80kg超級
金メダリスト
猪熊 功

日本伝講道館柔道の誇りを取り戻すため、ヘーシンクを追い続けた古武士

 猪熊功は2001年9月28日、東京都新宿区・東海建設の社長室で壮絶な自刃。会社の業績不振の責任を取る形で、63歳という若さで旅立った。

 現役時代は負けず嫌いで、“けんか柔道”の異名があったほど。得意技は一本背負い投げと体落とし。身長173cm。東京五輪には80kg超級(当時の最重量級)で出場した。自分より20~30kgも重い外国人選手を苦もなくさばき、投げて金メダルを手にした。

 無差別に無敵のヘーシンク(オランダ)がエントリーしたので、80kg超級がメダルの狩り場と思った巨漢選手たち。しかし、闘志満々で立ちふさがる日本の小さな柔道家に野望を打ち砕かれた。猪熊の一本背負い投げは、パワーで持ち上げて有無を言わさず投げる豪快なものだったし、体落としは横から相手の懐に入り込む、実に高度なテクニックだった。

 準決勝の相手は最強のライバルで怪力のキクナーゼ(ソビエト)だったが、猪熊は体落としの合わせ技で一蹴。そして決勝では、日本で修行したロジャース(カナダ)を攻めまくり、優勢勝ちで金メダルを獲得した。

 ただ、猪熊にとっては無差別で神永昭夫がヘーシンクに敗れたのが心残りだった。したがって、東京五輪以降の目標は“打倒・ヘーシンク”に。65年のリオデジャネイロ世界選手権が、その好機だった。

 ところが、ヘーシンクは重量級で優勝すると、大会途中で引退を表明。猪熊との対決を回避したのだ。無差別にエントリーし、手ぐすねを引いていた猪熊は当然のようにその階級で優勝したが、それからしばらくして「戦う相手がいなくなった」と27歳で第一線から退いた。日本伝講道館柔道の誇りを取り戻すためにヘーシンクとの対戦を熱望していた彼は、戦うモチベーションを失っていた。

 猪熊はこの後、東海建設に入り、東海大の柔道部強化に邁進する。69年には東京教育大(現・筑波大)の後輩である佐藤宣践を東海大の監督として招き、佐藤の手腕も得て、現在の大学最強の柔道部を作り上げた。

 79年に松前重義がIJF(国際柔道連盟)会長に就任すると、秘書として8年間補佐。柔道以外にも多彩な行政能力を発揮した。しかし、83年の全日本柔道連盟と全日本学生柔道連盟との内紛を機に、柔道界からは次第に遠のいていった。

 だが、96年には神奈川県柔道連盟の会長に復帰。評議員にもなり、これからその行動力や世界的視野での貢献が期待された。が、しかし…冒頭に期した自決。いろいろ意見はあろうが、猪熊は最後まで古武士のように振る舞い、自ら自分の人生にピリオドを打った。

Profile
いのくま・いさお 1938年2月4日生まれ、神奈川県横須賀市出身。不入斗中‐横須賀高‐東京教育大(現・筑波大)。全日本選手権優勝2回(59・63年)。64年東京五輪80kg超級優勝、65年リオデジャネイロ世界選手権無差別優勝。

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