柔道が初めてオリンピックの正式競技となった1964年東京大会から昨年のリオ五輪まで、“柔道王国”日本は史上最多のメダルを獲得してきた。そして、その長い歴史の中で燦然と輝くのは卓越した技量で他を圧倒し、表彰台の頂点を極めた金メダリストたちだ。ここでは、53年前の各階級のレジェンドから直近の大野将平、ベイカー茉秋、田知本遥まで、『日本柔道オリンピック金メダリスト列伝』として1人ずつ紹介。今回は、76年モントリオール大会無差別・上村春樹選手をクローズアップする。(※文中敬称略)

画像: 柔道が初めてオリンピックの正式競技となった1964年東京大会から昨年のリオ五輪まで、“柔道王国”日本は史上最多のメダルを獲得してきた。そして、その長い歴史の中で燦然と輝くのは卓越した技量で他を圧倒し、表彰台の頂点を極めた金メダリストたちだ。ここでは、53年前の各階級のレジェンドから直近の大野将平、ベイカー茉秋、田知本遥まで、『日本柔道オリンピック金メダリスト列伝』として1人ずつ紹介。今回は、76年モントリオール大会無差別・上村春樹選手をクローズアップする。(※文中敬称略)

1976年モントリオール五輪無差別
金メダリスト
上村 春樹

柔道家として
一括りに出来ない幅の広さ。
多様性と頭の回転の早さの持ち主

 上村春樹は3冠柔道家だ。現役引退後は全柔連の幹部として強化部門を引っ張り、日本のIJF(国際柔道連盟)理事として柔道の変質に心を配った。解説者としては響きのある低音で、わかりやすく説明。ユーモアを解し、一流企業・旭化成の子会社の副社長にまで出世した。現役時代は組み手の名手で、「組み手なら誰にも負けたことがない」と豪語する。

 モントリオール五輪では準決勝で、最大のライバルだった190cm、120kgのチョチョシビリ(ソビエト)と対戦。左釣り手を相手の胸に置き、チョチョシビリが動こうとしたところで、ちょんと手首を返してストップを掛けた。これを繰り返しながら同時に出足払いや背負い投げを繰り出し、最終的には優勢勝ちにつなげている。そして決勝は、レムフリー(イギリス)に崩れ上四方固め「一本」で勝利。五輪史上初の日本人無差別優勝を果たした。

 少年時代は100m20秒の運動神経。五輪選手になった頃でも174cm、103kgと、無差別では小さい方だった。だが、「小さいぶん、しなやかに攻められるのが私の武器でした」 と著書で語っている。大学を卒業後は延岡へ。練習相手がいない中、階段を駆け上がるのではなく、駆け下りて足の回転力を上げ、延いては柔道の足さばきを体得して全日本を制した。逆転の発想だ。

 思いつくままに上村像を挙げてみたが、彼は柔道家としては簡単に一括りにはできない幅の広さを持っている。中・高時代は別として、大学以降の柔道人生は選手としても、組織の幹部としても、常に日の当たるポジションで活躍してきた。それは上村が、何でもこなせる多様性と頭の回転の早さの持ち主だったからだ。柔道選手としても、行政マンとしても、組織の幹部としても、職責をつつがなくやり遂げてきた。

 強化委員長時代にはコーチの守るべき『心得七訓』を表した。合理的で具体的な内容だ。曰く、①「選手と良きコミュニケーションを持て」、②「ハートは熱く頭脳は冷静に」、③「常に研究心、向学心を持て」、④「選手に練習の質と同様に量の大切さを悟らせよ」等々。 様々な才能を、全柔連の幹部として組織作りに生かしてきたわけだ。

 唯一のミステークは、自分の周りに冗談が言い合える人物を揃えすぎ、適材適所を誤ったこと。これが、あの2013年の激動の遠因になっている。8月に一連の不祥事の責任を取って全柔連会長を辞任。だが上村は、わずか2年で全柔連顧問に復帰。全柔連としても上村の幅広い見識や能力を無視するわけにはいかなかったのだろう。また、IJFの方もビゼール会長が同志として指名し、理事に復活させている。

Profile
うえむら・はるき 1951年2月14日生まれ、熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身。益南中‐八千代東高‐明治大。73年ローザンヌ世界選手権2位、73・75年全日本選手権優勝、75年ウィーン世界選手権優勝、76年モントリオール五輪優勝。講道館館長、IJF理事。

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