1986年から長きにわたって日本文理高を率いた大井道夫氏が2017年夏の甲子園を最後にユニフォームを脱いだ。就任当時、弱小だったチームを手塩にかけて育て上げて甲子園に出場すること春5度、夏9度。2009年夏には新潟勢最高成績となる準優勝を成し遂げた。

40代半ば指導者人生のスタート

 1959年夏、宇都宮工(栃木)の左腕エースとして甲子園準優勝を果たした大井道夫。進学した早稲田大では野手に転向して活躍。卒業後は社会人・丸井でもプレーした。引退後は家業を継ぐ傍ら、母校・宇都宮工でコーチを務めていた。しかし、1986年、転機が訪れる。

画像: 1959年夏、宇都宮工(栃木)の左腕エースとして甲子園準優勝を果たした大井

1959年夏、宇都宮工(栃木)の左腕エースとして甲子園準優勝を果たした大井

「創立3年目の新潟文理(当時、現・日本文理)に行ってくれと。もともとは監督として呼ばれたわけではなく、その後の野球部を率いていく人材育成をはじめとした部の基礎づくりが私に求められたことでした。期間は2年間だと言われました」

 そのオファーを持ってきたのは作新学院で監督を務めていた山本理(故人)。大井にとっては息子の恩師に当たる人物だ。作新学院入学後に難病を患い、野球どころか学校生活も満足に送れない状態になった息子の卒業に尽力してくれた恩義から、断れる理由はなかったという。

「2年のことだからと、家業の料理屋を今は亡くなった女房に任せて、単身で新潟に来ることになりました。でも、来てみて驚かされることだらけだった。聞いていた話とも大きく違う部分がたくさんあってね。野球部も最低限の形すら成していなかった。それだけに収まらず、学校経営すら円滑にいっていなくて、そのうちに私を呼んだ理事長がいなくなってしまった。ここでやっていくのは簡単なことではないと思ったね」

 新しく理事長に就いた人物に、すぐに辞表を提出しようとした大井だったが、「生徒を見捨てないでください」との言葉に心を揺さぶられる。背中を押したのは妻・秀子だった。「たった2年の話なんだから、生徒のためにやってあげたら」の一言に「2年だけガマンしよう」と決意した。

 理事長とともに姿を消していた監督の代わりに、十数人を率いることになった。当時の野球部にあったのは「弱小」のレッテルと10個程度のボールと捕手用のプロテクターが一つだけ。故郷を離れ、縁もゆかりもない新潟へ。40代半ばの転身だった。

おおい・みちお/1941年9月30日生まれ。栃木県出身。宇都宮工高では3年夏(59年)に投手として甲子園準優勝。早稲田大に進学後は内・外野手として活躍。社会人チーム・丸井でもプレーした。引退後は家業を継ぐ傍ら、宇都宮工高コーチを務める。86年、新潟文理高(現・日本文理高)監督に就任。97年夏に同校初の甲子園出場に導く。2006年センバツでは新潟勢として春初勝利を挙げ、ベスト8に進出した。09年夏は新潟勢最高成績となる準優勝。14年夏にもベスト4に進出。春5回(2006、07、09、11、14年)、夏9回(1997、2002、04、06、09、11、13、14、17年)、甲子園に出場。17年夏の甲子園後、総監督に退いた。

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