1986年から長きにわたって日本文理高を率いた大井道夫氏が2017年夏の甲子園を最後にユニフォームを脱いだ。就任当時、弱小だったチームを手塩にかけて育て上げて甲子園に出場すること春5度、夏9度。2009年夏には新潟勢最高成績となる準優勝を成し遂げた。

打の日本文理構築のきっかけ

 甲子園との距離は徐々に縮まっている感触があったが、簡単にはいかないのが高校野球。そのころは、「勝ちたい一心でやったことがないスクイズをやらせて失敗したこともあった」という。「生徒は監督を見ているもの。監督が普段と違う姿を見せると、それは生徒に少なからず影響する。そういうものなんだと思うね」。そんな経験則を得た。

 初めて甲子園に出場したのは、監督就任から12年目の1997年夏。その初戦(2回戦)、その大会を制する智弁和歌山(和歌山)と対戦し、6対19の大敗。打力の圧倒的な差を見せつけられたことが、その後、“打”の日本文理スタイルを構築するきっかけとなった。

「19点取られて、打てるチームでないと甲子園では勝てないと分かった。スイングスピードから違うんだもの。目指すレベルが明確になって、そこからは練習時間の7~8割はバッティング練習になったんだ。高嶋(仁)監督には感謝だね」

 さらに、3度目の甲子園になった04年の夏は練習会場が一緒になった済美(愛媛)から大きな刺激を受けた。「練習を終えた上甲(正典)監督(故人)がマシンを貸してくれたんだけど、そのスピードに度肝を抜かれたの。ウチの生徒は振れども、振れどもかすりもしない。150㌔は出ていたはずだよ」。打撃偏重の練習内容に拍車がかかったきっかけだ。

画像: 甲子園を経験し、練習は「打撃が8割」。打の日本文理構築のきっかけとなった

甲子園を経験し、練習は「打撃が8割」。打の日本文理構築のきっかけとなった

 そして2005年秋の北信越大会で準優勝。翌春は初めて春のセンバツに出場した。この北信越大会準決勝では福井商(福井)に対して秋の北信越新潟勢初勝利。「新潟勢と当たることになれば、相手の分析なんてしなくていい」と言われた時代を経て、コンプレックスを払拭する1勝でもあった。

「のちに夏の甲子園準優勝などもしたけど、この勝利が一番の喜びかもしれない」と大井。準決勝で勝利をした夜、新潟で指揮を執る指導者陣との宴が盛り上がったことは今だから打ち明けられること。

「はしゃぎ過ぎちゃってさ、決勝戦は高岡商(富山)に15点も取られちゃった。生徒たちが頑張ってくれて8対15とスコアは何とか形になったんだけど、あまりに点差を離されて終わっていたら、センバツ出場は危うかったかもしれない(苦笑)」

おおい・みちお/1941年9月30日生まれ。栃木県出身。宇都宮工高では3年夏(59年)に投手として甲子園準優勝。早稲田大に進学後は内・外野手として活躍。社会人チーム・丸井でもプレーした。引退後は家業を継ぐ傍ら、宇都宮工高コーチを務める。86年、新潟文理高(現・日本文理高)監督に就任。97年夏に同校初の甲子園出場に導く。2006年センバツでは新潟勢として春初勝利を挙げ、ベスト8に進出した。09年夏は新潟勢最高成績となる準優勝。14年夏にもベスト4に進出。春5回(2006、07、09、11、14年)、夏9回(1997、2002、04、06、09、11、13、14、17年)、甲子園に出場。17年夏の甲子園後、総監督に退いた。

This article is a sponsored article by
''.