1989年5月号掲載[スペシャル・インタビュー]

[第1回]
アントン・ヘーシンク
ANTHONIUS GEESINK

「日本よ、今こそ狭い視野を捨て、世界のリーダーとして立ち上がれ!」

かつて日本柔道の前に大きく立ち塞がった“偉大なる巨人”アントン・ヘーシンクが熱く語る

柔道が正式種目として初登場した東京オリンピックの無差別で、見事に優勝を果たしたアントン・ヘーシンク。『近代柔道』では1989年に国際オリンピック委員として世界柔道を見守るヘーシンク氏のインタビューを行った。柔道との出会い、思い出、そして日本柔道に対する思い出に至るまで、“偉大なる巨人”の口調は次第にそのボルテージを上げていった。その様子を2回に渡って紹介する。

画像: 「近代柔道」1989年5月号

「近代柔道」1989年5月号

柔道を始めたのは14歳のとき
当時はとてもスリムだった

――IOC委員としての仕事の他、どんなことをしていますか?

ヘーシンク ビジネスをしている時間はないんですよね(笑)。スポーツ関係の仕事の他は、オランダ政府の仕事をしています。たとえば日本に関するアドバイザー、今回はそのことで日本に来ている訳ですが…。またねオランダ実業家の人の依頼で外国へ行き、オランダの会社とその国の会社の出会いを作ることを手伝ったりしています。その会社の製品を販売するということではなく、会社を紹介することをしているんです。これは面白い仕事で、特に今の私にはスケジュールの上でもあまり制約がないので、とても適しています。まあ、8割か9割の時間は国内のNOCの仕事やIOCの仕事、また文化活動などに取られていますけど。 

――その間に柔道の稽古をすることは?

ヘーシンク もちろんです。この2年間はヒザの具合が悪くてできませんでしたが、手術をして最近は調子も良く、1日1日回復しているのがわかります。あと1ヵ月もすればだいじょうぶでしょう。

――オランダ柔道連盟での肩書は何ですか?

ヘーシンク 特にありませんが、アドバイスをしたり、夏には2万3000人の子どもにレッスンをしたりします。ちょうどそんなときに私が招待した東海大のチームやオールジャパンのジュニアの選手たちが来ましたね。

――今、何段を持っていますか?

ヘーシンク 9段です。昨年、本を出したんですが、それに対して連盟が9段の栄誉を与えてくれました。

――それでは、具体的に柔道の話しをしたいと思いますが、いつ頃柔道と出会いましたか?

ヘーシンク 14歳のときです。当時、私はサッカーと水球に夢中でしたが、観戦に行ったサッカーの試合のハーフタイムに護身術(柔術?)のデモンストレーションがあり、このとき、非常に強い印象を受け、直ちにサッカーと水球をやめて護身術、そして柔道へと入っていきました。

――稽古はどのようにして行ったのですか?

ヘーシンク 最初は道場などなかったので、護身術を教える所とかレスリングのマットの上でやりました。それから日本大使館に頼んで8㎜のフィルムや本を手に入れたんです。

――ということは、独学でやっていたことになりますね。

ヘーシンク まったくその通りです。しかし、後にはベルギー、ドイツに遠征するようになりました。フランスでは戦前から柔道は人気がありましたからね。

――そういう国には早い時期から道場があったわけですね。

ヘーシンク そうですね。

――14歳で柔道を始めたとき、体重はどれくらいあったのですか?

ヘーシンク 写真を持っていないので見せられないのが残念で、皆さんにとっては大きな驚きだと思いますが、1956年に東京で行われた世界選手権に参加した20歳代の始めの頃は、わずか82㎏しかありませんでした。

――それではかなりのやせっぽちでしたね。

ヘーシンク そう、とてもスリムでした。

――東京オリンピックで金メダルを取ったときは何㎏くらいでしたか?

ヘーシンク あのときは106kgありました。しかし、オリンピック後には選手からコーチという立場に変わって運動量が急激に落ちてしまい、体重は増える一方。そうするとヒザなんかに問題が生まれてきたりしますね。

――東京大会のときと今と変わりがないように思いましたが。

ヘーシンク いや、そんなことはありませんよ。必ず証拠の写真を送ると約束します(笑)。

柔道に必要な2大要素
それは“準備”と“実行”だ

――東京オリンピックの頃と今とでは、どんな違いが柔道にあると思いますか?

ヘーシンク あの頃との違いは、今の柔道では作戦というか、技と技の駆け引きが全くなくなってしまったことでしょうね。以前は相手に対して押し、押し、そして返して来たらその力を利用するという風に相手に闘いを挑むことができましたが、今はわかっていても、そういう時間の余裕はありません。組みにくい相手を強引につかみ、力でもって引き倒そうという傾向にあります。これが大きな違いですね。それから、5分間という試合時間は十分ではないと思います。私の考えでは、柔道には二つの重要な要素、“準備”と“実行”があります。しかし、今の時間およびルールでは、“準備”して“実行”するための十分な時間を選手に与えず、“実行”にすぐ入らなければなくなりました。つまり、“作用”、“反応”がなくなり、“作用”だけになってしまい力で相手を引き倒すということになってしまっています。だから、パワーがより重要な役目を担うということになるのです。

――すぐに結果を出さなくてはいけないということですね。

ヘーシンク そうですね。ほとんどの選手は相手をつかむやいなや力で引き倒そうとします。今では“準備”がなくなり、“実行”が見られるだけです。

――その傾向だと腕の力が極端に強い選手が有利になりますね。相手をいろいろ崩して技を掛けるということに比べると興味が半減するように思われますが。

ヘーシンク それでも、昨年のソウルオリンピックの前までは柔道人気はありました。しかし、ソウルでは韓国の選手が負けてしまうと会場は空っぽになってしまうという具合で、柔道はあまり人気がありませんでしたね。

――どうして柔道がそういう路線になっていったのでしょうか?

ヘーシンク わかりません。ただ、可能性として考えられることは、日本がこのことに関して十分に努力をしなかったということです。柔道の発展のためには強い日本が必要です。組織として、選手として強い日本が不可欠なのです。それにもかかわらず、この数年間、日本には組織に関しての大きな問題がありました。これは、世界各国に「問題のある日本にアドバイスを求めることはない」という認識を持たせてしまいました。そこに柔道の人気が下降線をたどる原因が生まれるのです。つまり、世界中から倒すことを目標とされている日本が、その対象にならなくなれば必然的に全体のレベルが下がるということです。そういう理由から、日本内部の状態が安定したということを聞いて、私は本当にうれしく思います。日本以外の国ではまだ挑戦の対象に成り得ないのです。

――まだまだ日本が世界のリーダーシップを取らなければいけないということですね。

ヘーシンク 柔道の世界はまだリーダーが必要なのです。そして、リーダーはまだ日本でなければならない。日本はそれを世界に示さなければなりません。組織として、選手ひとり一人をしてリーダーであるということを見せて欲しいのです。そういう意味で神永(昭夫)氏が連盟に加わり、内部の状態が安定したのだから、ベオグラードでは良い結果出して日本の柔道が立ち直ったところを世界に示してくれればいいのです。これは、日本が世界の柔道のリーダーであるということを示すための義務であり、厳しい役目であると思います。強い組織と選手たち、私はこれをベオグラードで見られるものと思っています。

――それには何が必要でしょうか。

ヘーシンク 日本が積極的に学ぶことです。ヨーロッパには優れた方法論を持った国もありますからね。他の人に自らアドバイスを求めることがより良いリーダーを作るでしょうし、自分だけですべてわかっているんだというような考えを持ったら良いリーダーとは言えないでしょう。これが日本のしなければならないことだと思います。
――確かにそうですね。

画像: ――それには何が必要でしょうか。

Profile

アントン・ヘーシンク(Antonius Johannes Geesink)、1934年4月6日オランダ・ユトレヒト出身。2010年8月27日、78歳没。国士舘大学名誉博士。十段。1964年東京オリンピック無差別で神永昭夫を袈裟固めで破り金メダルを獲得。1965年に引退も67年に復帰。現役引退後は柔道指導者として活躍する傍ら、石油会社の経営にも携わった。国際柔道連盟教育普及理事、国際オリンピック委員会委員を務めた。2004年国際柔道殿堂入り。主な戦績は1956年世界選手権東京大会無差別3位、61年世界選手権パリ大会無差別優勝、64年東京オリンピック無差別優勝、65年世界選手権リオデジャネイロ大会80kg超級優勝。

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