果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】自身の引退相撲直後にスカウトしてきた栃東が新十両昇進の直前。弟子の実力のほどを自分自身で確かめてみようと「茶目っ気」を出し、久々に稽古廻しを着けて土俵に上がった春日野親方(元横綱栃錦)だったが、5番取っていずれも転がされてしまう。元横綱の師匠に着実に力を付けてきていることを実感させた栃東だった。

幕下全敗は出世しない、というジンクス…

 小さいころから末は大下弘(セネタースほか)か、川上哲治(巨人)かを夢みていた野球少年の栃東が、

「これではプロ野球選手になるのはとても無理。といって、それほど勉強も好きではないし。いっそのこと、ピンチヒッターに駆り出されて県大会で優勝した相撲に懸けてみるか」

 と決心し、横綱の栃錦が引退してそれまでの二枚鑑札(現役と師匠の兼任)から親方一本になったばかりの春日野部屋に入門。初土俵を踏んだのは、昭和35年11月のことだった。

 ずっと野球部にいたこともあって、体は小さかったが、運動神経は抜群。

「自分は自信を持って勝っているのに、オヤジ(師匠)は見ていてヒヤヒヤしてたんでしょうね。相手が大きいと『よう勝ったなあ』とよく褒めてくれました。取り口は、もう当時から頭をつけて上手から出したり、引いたりの専門。うちの部屋は伝統的に小兵が多く、自分が入門したときも、栃ノ海さんや栃光さん、八染さん、一乃矢さんといった小さな人が何人もいましたから。見よう見真似で、いつの間にか、覚えてしまったんですね」

 と、引退して年寄「玉ノ井」を名乗った栃東は、当時を懐かしそうに振り返った。

 出世は順調だった。初土俵からわずか2年で幕下に昇進し、3場所、三段目にUターンしたがすぐ定着。ところが、好事魔多しで、東の17枚目まできたとき、とんでもない落とし穴に足元をすくわれてしまった。

 場所前の稽古で右の鎖骨を強打。利き腕の右肩がまるで上がらなくなり、春日野親方の「それじゃ、相撲を取るのは無理だ。今場所は休め」という勧めを振り切って出場したのが裏目と出て、なんと7戦全敗を喫したのだ。

 古い伝統や言い伝えが今も生き生きと息づく大相撲界には、「幕下で全敗した力士は出世しない」というジンクスがある。

「オレは、そんなジンクスがどうのこうのというような有望力士じゃないよ」と自分に言い聞かせたものの、「アイツも、先はたいしたことないぞ」という周囲の雑音がつい耳に入ってくる。

 栃東がこのショックから立ち直り、「全敗力士は出世しない」というジンクスは間違いだと証明するのに、それから丸1年もかかった。春日野親方との世紀の(?)「師弟5番勝負」が行われたのは、ようやくこのドロ沼から抜け出すころのことだった。

画像: 稽古場で弟子の様子を見つめる春日野親方(元横綱栃錦、右の火鉢の奥)。左端は横綱栃ノ海

稽古場で弟子の様子を見つめる春日野親方(元横綱栃錦、右の火鉢の奥)。左端は横綱栃ノ海

勝負は最後の最後まで、あきらめるな

 そして昭和40年(1965)の春場所、とうとう十両入りのチャンスが巡ってきた。西の5枚目で4勝2敗とすでに勝ち越し、これに勝てば昇進確実、という大一番を迎えたのである。

 その前夜、栃東は一晩中、悶々としてほとんど眠れなかったことを、よく覚えている。この何が何でも負けられない相手の一番は、早くも4勝して十両入りの切符を手に入れている筆頭の杉浦(のち幕内和晃)だった。体中が今まで経験したことのないようなプレッシャーでしびれている栃東は、思い切って頭から突っ込むと、得意の両前ミツを取って食い下がった。

 栃東の最も得意の体勢で、いつもなら、そのまま一気に前に出て難なく勝負をつけている必勝パターンだった。しかし、身も心もカチカチの栃東は、気ばかり焦って肝心な足がまったく前に出ず、逆に杉浦に反撃され土俵際に再三詰まる始末。何度かの寄りをこらえているうちに、いつしか、もとどりがぷっつりと切れてザンバラ髪になっていた。

 そんな大相撲と緊張感でだんだん意識がボーっと薄れていく中で、フイに栃東の脳裏に、ふだんは滅多に口をきいてくれない師匠の、ある言葉が甦ってきた。

「勝負というのは、最後の最後まであきらめるんじゃない。土俵際に追い込まれた土壇場の一秒、千秋楽の一番で力士の運命は上下する。お客さんが一番喜ぶのもその粘りなんだ。食らい付いて、食らい付いて、食らい付き負けするんじゃないぞ」

 ここであきらめてはいけない。そのときドッと杉浦が寄ってきた。もう回り込む力は残っていない。栃東は一度身を沈めると、つかんでいた両前ミツを全力で頭の上まで持ち上げ、そのまま自分も思いっ切り横に倒れ込んだ。この執念の打っ棄りに、長身の杉浦の体が大きく弧を描いて飛んだ。

 辛勝。フラフラしながら立ち上がった栃東は、行司の軍配を目で確かめると、

「ああ、これでオレも親方の真の弟子になれたな」

 と思い、かつての春日野親方がよくやったように、アゴをツンと上に向け、小さな胸をグイと張った。

 人生に浮き沈みはつきものだ。昭和40年の夏場所に新十両、2年後の42年(1967)春場所に新入幕と、それからの栃東は順風満帆だった。翌43年の夏場所、横綱の柏戸を破るなど、10勝5敗の好成績を挙げて殊勲、技能賞をダブルで手にしたのを皮切りに、45年の初場所までの11場所の間に、殊勲賞4回、技能賞5回を獲得し、すっかり三賞の常連に成長している。

そんな栃東が突然、原因不明の悪寒と発熱に襲われたのは、初場所に通算4回目の殊勲、技能のダブル受賞の離れ業をやってのけ、新関脇に昇進した昭和45年(1970)春場所後のことだった。(続く)

PROFILE
とちあずま・ともより◎本名・志賀駿男。昭和19年(1944)9月3日生まれ。福島県相馬市出身。春日野部屋。177㎝115㎏。昭和35年九州場所初土俵、40年夏場所新十両、42年春場所新入幕。47年初場所で幕内最高優勝。最高位は関脇。幕内通算59場所、404勝448敗23休。優勝1回、殊勲賞4回、技能賞6回。昭和52年初場所限りで引退。平成2年(1990)に玉ノ井部屋を創設、次男の大関栃東(現玉ノ井親方)らを育てた。平成21年9月停年退職。

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