文/本間 暁
鶴見の駅前を疾走してくる姿が目に入った。遠目から見ても、すぐにそうだとわかる。このフォームをいままで何度見てきただろう──。いや、それだけじゃない。誰が見たって、ただもんじゃないとわかる。“トップアスリート”の走り方だ。
8月11日。個人ブログでの突然の引退宣言。すぐに話を聞きたいと思ったが、実家のある愛知県田原市でお盆を過ごし、その後は、支え続けてくれた妻・かすみさんを労う意味もあったのだろう。旅行に出かけていたため、9月上旬になって、ようやく時間をとってもらうことができた。
いまは「応援してくれている方のところ」というリフォーム会社で働いている。ありがたいことに、忙しくあちこちを飛び回っているから、約束していた時間もズレこむことになった。だから、“疾走”には彼なりのお詫びの意味もあったはず。実直な姿は、ボクシングに打ち込む姿勢そのまま。こちらはあの懐かしいフォームを見られただけで感激だから……。
待っている間、コーヒーを何杯も飲んだからアイスココアを注文した。するとすかさず「なに少年みたいなの飲んでんすかー!」とツッコまれる。リング上の金子大樹は、冷静で冷徹なイメージがあるだろうが、普段はいつもこんな感じだ。どっちが少年だ!…って言いたくなるくらい、子どものように元気だ。そして、“兄貴”赤穂亮と一緒にいるときは、まるで掛け合い漫才のように、テンポの速いトーク合戦を繰り広げる。ボクサーの速射砲に、おじさんはいつも置いてけぼりを食らってきた。
7月9日。ロシア・エカテリンブルク。WBAアジア・ライト級タイトルマッチに臨んだ金子は、初回に右でダウンを奪われたが、その後は怒涛の追い上げをみせて、無敗のパブロ・マリコフ(ロシア)を攻め抜いた。
「3ラウンドにボディを効かせたのがわかって、このまま攻め続ければイヤ倒れするかなと思ったんですが……。試合前、もっと難しい選手だと思ったけど、思っていたよりは自分のパンチも当たる。けど、ボディワークは巧いし、やっぱりパンチは当てづらかったですよ」
体格でもフィジカルの強さでも上回った。だが、あとひと刺しを奪えない。マリコフの気持ちの強さは意外だった。そして「こっちもたくさんもらいましたから」
最終10回の終了ゴングと同時に左フックをガツンと決められ、背中からキャンバスに倒れ込んだ。
「みんな、あの左フックのことを言いますが、その前の右を食ってフラついてたんです。いやー、12回やってたら危なかった」と爽やかな笑顔で振り返る。
判定は1-2。97対92、95対94がマリコフを支持。ジャッジ1人は95対94で金子の勝ちにつけた。「『勝ってたよー!』って言ってくれる人もいるけれど、自分のやりたいことをやって倒せなかったから」と、敗北を素直に受け入れる。この男気が、同じ男として惚れてしまうゆえんだ。
「負けたのはもちろん悔しいんですが、今回は試合までの調整も最高にうまくいったし、試合でもやりたいボクシングをできたんです。だから……」
試合が終わって、病院で検査を受け、ホテルに戻ったその夜に考えた。
「引退だな──」
気持ち良かった。清々しかった。やりきった。
もちろん、後悔とか未練とか、考えたらキリがない。
けれど、日頃からの生活、練習。
ボクシング一筋で自分に妥協しないでやってきたから。
強い相手と、ロシアで戦うこともできた。勝負させてもらえた。
自分は本当に幸せです──。
それでも、試合から2週間ほど、夫人を含め、誰にも想いを打ち明けなかった。
「やっぱり、好きなボクシングをできなくなる寂しさもあったから……」
でも、気持ちは変わらなかった。
引退宣言から3週間ほど。
いま目の前にいる金子には、湿っぽさは一切なかった。
終始柔らかい表情を浮かべている。
こんな清々しさを見せられるなんて、男として本当に羨ましいとも思う。
「こいつ、いいセンスしてるんですよ。でも、いま一つ、突き抜けられない」
赤穂亮の取材に行ったとき、シャドーボクシングに励む金子を紹介された。
たしか、2008年とか09年。金子がB級からA級になろうとするころだった。
非凡なものを持っているのはわかった。でも、試合では勝っても快勝できない。
勝てる試合なのに、引き分けに持ち込まれてしまう。
自分をしっかりと表現できない選手だった。
それが激しく変貌を遂げたのが『最強後楽園』だった。
何事も、真面目にコツコツと努力していくタイプだった。
だから、地道にフィジカルトレーニングを続けているのは知っていた。
そこで鍛え上げた体力が、精神的に揺るぎない基盤となった。
日本チャンピオンに駆け上がり、4度の防衛戦も震えがくるほどの圧勝劇を重ねた。
そして、その勢いのまま、「尊敬していた」内山高志への挑戦が決まった。
「内山さんは全部タイミングをズラしてくる。だから、まったく反応できなかった」
10ラウンドに、ロープへ追い込んで右フックでダウンを奪ったものの、試合全体をとおしてジャブをしこたま食らい、右の強打も打たれ続けた。立っているのが信じられないくらいの完敗だった。
「世界の壁を思い知らされました。ボクシングの奥深さも」
しかし、金子はただ負けただけではなかった。
身をもって知らされた“内山のジャブ”を研究し、その後の試合で、影響色濃いジャブを駆使した。
世界チャンピオンの中でも、突き抜けた存在だった内山だ。
だから、金子にはまだまだ期待感があった。
尾川堅一(帝拳)、伊藤雅雪(伴流)、内藤律樹(E&Jカシアス)という国内ライバルもいた。
サバイバル戦を生き残れば、浮上する道はあった。
けれども、ジョムトーン・チューワッタナ(タイ)、そして仲村正男(渥美)に敗れた。
はっきりとスランプを思わせた。
真面目すぎるがゆえ、あらゆる人からのアドバイスを受け入れ、迷いが生じた結果──。
「仲村戦後に、『オレ、センスないなぁ。もう辞めよう』って思ったんですけど、赤穂さんに連絡したら、『まだ日にちも経ってないし、よく考えてみな』って家まで来てくれたんです。
自分でも考えてみたら、全然気持ち良くなかったし、やりたかったボクシングもできなかったし。ここで辞めたら、未練たらたらで生きていくんだろうなって」
アドバイスを受け入れ、様々なことを吸収するのが好き。
でも、それらを咀嚼して、結局は自分のやりたいようにやる。
自分の長所とは何かを考え、それを生かす。
石井一太郎会長も、金子の考えを尊重してくれた。
自分色を真に手に入れた瞬間だった。
今年5月の東上剛司(ドリーム)戦は、久しぶりに背中をゾクッとさせられた。
「勢いだけでやっていた」という日本チャンピオン時代を彷彿とさせる“怖さ”“凄み”を感じた。
ジャブも強く速い。ここ数戦、ラフになりつつあった右も、綺麗なストレートで長短ともに強烈。フィジカルの強さを攻防に生かす、均整のとれたボクシングも甦り、ワンステージ上に昇った印象を受けた。
そこで一気に仕掛けたロシアでの大勝負──。
尾川、伊藤らとの“ライバル対決”を本人も周囲も待望していたが、なかなか実現に向かわない雰囲気は察知していた。
だから、初めての異国戦に臨んだ。そして負けた。
「ロシアなんて、もう一生行かないと思いますよ(笑)。だけど、あんな大きな興行で戦わせてもらって、自分の人生にとって、ものすごい経験になるはずです」
「自分のキャリアの中で、好きな試合は?」と訊くと、
少し間を空けて、「2試合いいですか? 東上戦とロシアの試合です」と返ってきた。
中学を卒業し、世界チャンピオンになることを決意して単身横浜へやって来た少年。世界を一瞬つかみかけたが、ついぞその望みを叶えることなく、自ら身を退く。
しかし、29歳となった青年は、たくさんの浮き沈みを経験し、しっかりと両足で踏ん張り、這い上がり、多くの貴重なものを手に入れた。
「たったひとりで横浜に出て来た自分のお世話をしてくれる人と出会って……。人との出会いが強くしてくれました。ひとりじゃ何もできなかった。そんな方々に恥じないような生き方をしていきたいですね」
プロのリングからは去ったけれど、ボクシングは大好きだ。
もう少し経ったら、ジムワークも再開しようと考えている。
「だって、引退して太ったなんて言われたくないじゃないですか。
それに、気持ちも緩んじゃうんじゃないかと思って」
精神はボクサーのまんま。何も変わらない。
いや、変わらないことにこそ尊さがある。
金子大樹のボクシングに向き合う様は、15の少年のまま。
別の希望、夢が、心の中でキラキラと輝いている。
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