文&写真_宮田有理子 Text & Photos by Yuriko Miyata
待ち続けたビッグマッチ。9月16日にラスベガスで行われるサウル・“カネロ”・アルバレス(メキシコ)との頂上対決へ向け、トレーニングキャンプに入った統一世界ミドル級チャンピオン、ゲンナディ・“GGG”・ゴロフキン(カザフスタン)に会いに、南カリフォルニアのリゾート地、ビッグベアレイクを訪れた。
※インタビューは発売中の『ボクシング・マガジン9月号』に掲載
かつてはマイク・タイソンやオスカー・デラ・ホーヤ(いずれもアメリカ)、マルコ・アントニオ・バレラ(メキシコ)、数々のトップボクサーの合宿地として聞き覚えのあった「ビッグベア」へ、初めて向かう。
ロサンゼルスの中心を抜け、東へ100マイル(160km)。フリーウエイを降りると、青々と連なる3000m級の山々へ、一本道に導かれる。箱根のヘアピンカーブ、日光のいろは坂のようなぐねぐねをひたすら進み、ふと横目をつかうと、くらくらするような高度感。下界が遠くかすんで見えた。
いま世界中の注目を集めるボクサーの秘密基地は、スキー場下に広がる松林の中にあった。
ベテラントレーナー、アベル・サンチェスが営むそのジムの名は、“ザ・サミット”。頂上。
たまに通る車の音以外、きこえるのは鳥の声だけだ。
ジムのドアは無防備に開いていたが、人の気配はない。
正午にここで待っていてくれるはずのK2プロのトム・ロフラーの姿もない。
電話にメッセージがあり、緊急の用でロサンゼルスへ戻ったとのことだった。インタビューの件は伝えてあるから大丈夫だという。
しばらくすると一台の車がジムの駐車場に入ってきた。世紀の一戦を放映するテレビ局HBOのクルーだった。ビッグマッチを前にした両雄の姿を追う宣伝番組『24/7』の映像を撮りにきたのだ。
「アベルとゲンナディが戻ってくるのは3時だよ」。機材をジムの中に運び入れ、準備を進める様子を見ながら、待つ。トレーニング時間が近づくと、ほかにも数名、記者らしき男性が慣れた様子でジムに入っていく。はたして今日、本当に、初対面の、日本のいち専門誌記者に話を聞かせてくれるのだろうか。
大きな舞台を前に取材をシャットアウトするビッグネームは少なくない。むかしは気軽にスパーを見学できたマニー・パッキャオ(フィリピン)は、いつのころからかジム側が彼の練習時間になると扉を閉ざすようになった。今回、サンディエゴで準備を進めるカネロも、基本的には取材を受けない姿勢だという。35歳のゴロフキンだって、かつてない大仕事の前。3月のダニエル・ジェイコブス(アメリカ)戦でみせた、初めての苦戦のあとでもある。神経質になってしかるべき時なのだ。
だが、それはまったくの杞憂だった。
カザフスタンの“石の拳”は、聞きしに勝る、広くて深い懐をもった人だった。
午後3時。「やあ。覚えているよ、ラスベガスで一度会ったね」、サンチェスがジムの中に招き入れてくれた。まもなく、ゴロフキンが登場する。顔見知りのテレビクルー、記者らと挨拶をかわした後、さわやか過ぎる笑顔がこちらに向かってきた。握手の感触がとぶほど緊張していたが、なんとか言葉が出た。「こんにちわ。日本のボクシング・マガジンから来ました。トレーニングのあとにお話を聞かせてください」。
「もちろん。来てくれてありがとう」
写真撮影の可否は現場で確認とロフラーから言われていたが、すんなりとサンチェスのお許しが出た。HBOクルーも、フラッシュをたかなければいいよ、とのこと。なんだか、順調すぎやしませんか……? ここに至るまでに3時間待ったことなど、すっかり忘れてしまっていた。
靴下をはき、シューズの紐を結び、目の前でゴロフキンが動き出す。
チームメイトのIBFクルーザー級王者ムラト・ガシエフ(ロシア)とともに、ロープを3ラウンド跳んでから、20分ほどのストレッチ。
二つ並んだ台の上で、さまざまな角度と負荷で腹筋・側筋を鍛える。
リング内に入り、ダンベルを持ってシャドーボクシング。重りをはずし、高速回転のシャドー。
リングロープを利用した首のストレッチ。
手首の強化。フロアに置いたケトルベルをフリップさせる運動。
毎日のルーティーンなのだろう。汗だくになって黙々と、テンポよくメニューは消化されていく。そんな中、二人が汗をぬぐい、水分を補給するために手を止めた時。
ゴロフキンがいたずらっぽい笑みをうかべた。なんだなんだ……。
「やってみない? 誰か、これ。ほら、もっと軽いのでいいから」
思いがけぬ展開に、リングの外野に戦慄が走る。見渡せば、ひょろっとした草食系か腹が出っ張ったメタボ系しかいない。おまえやれよと、目くばせし合う。もっとも若手らしきモード系のお兄さんが、先輩たちの空気に圧されて、リングに入る。
ゴロフキンたちが使っていたものより一回り小さいケトルベルを、手首をくるっとひねって返そうとする……が、びくともしない。ボクサーたちが易々と行っているようにみえる動きは、いかに常人離れしているか、取材側は身をもってそれを知る。
続いて、ローラーを使った体幹トレーニング。
バランスボールの上に直立する。
腕立て伏せならぬ“アゴ立て伏せ”。
ゴムチューブを使った肩回りの強化。
15ポンドの砂袋を頭に載せて、首周りの筋トレ。
「さあ次はキミたちの番」と、ウインクを飛ばしたゴロフキンは、全身をプルプル震わせ、歯を食いしばる“挑戦者”たちを「ほら頑張れ頑張れ、あと少し!」と激励する。そのうち、「次はオレが」と草食系もメタボ系も、自ら火の中に飛び込んで、そして惨敗。爆笑が起きる。そんな楽しい空気を造り出しながら、ゴロフキンはハードなメニューを着々とこなしていった。
7月初旬にスタートした今回のキャンプ。8月中旬までに肉体を鍛え上げ、スパーリングは、その後3週間だけで、70から75ラウンズほど。それが、トレーナー歴42年のサンチェスがベストと考えるやり方なのだという。
「しっかり造り上げた体で、質の高い実戦練習をぎゅっと凝縮して行います。不必要なダメージを避け、ベストな状態でリングに上げるためです」。
2時間半みっちり。フィジカルトレーニングのみで、その日の午後練習は終了した。
テレビクルー、記者らと短い談笑を終えたゴロフキンが、こちらに視線を向けた。
「待たせましたね。座って話しましょうか」。
「お疲れのところ、本当に恐縮です。ありがとうございます。では……」
とその時、隣の部屋から突然テレビの大音量が流れ出した。ゴロフキンが声を張り上げる。
「おーい、ゴメン!インタビューなんだ。テレビ消してくれる?」
試合2ヵ月前になると、ロサンゼルスに家族を残して、この山にこもる。
この国へ来て、人生は大きく変わったという。妻と息子とのアメリカ生活は、幸せだと。
「ドイツでは未来はないと感じた時、カザフスタンに戻っていたら、まったく違う人生だったでしょう。アメリカに来たころは、私は本当に無名でした。でも、この国の人たちは認めてくれます。それができた自分のスタイルを誇りに思うし、そう導いてくれた私のコーチ、チームを尊敬し、信頼しています」
英語を母国語としない者同士の会話は、完全な自由がない分、伝えようとする気持ちが通うように感じられる。気づけば40分。ゴロフキンが時計に目をやることは一度もなかった。
「長い時間、お話を聞かせてくれてありがとうございました」
「どういたしまして。今日は来てくれてありがとう。またいつでもどうぞ」
強さと優しさのかげには、口には出さぬ数々の苦労があるのだろうと、想像する。
誰もがこの人のとりこになる。それは、たぶん本当だ。
ところで今回の『24/7』は、どんな番組になるのだろう。スタッフの体感が、いつもと一味違う一本に仕上げるのではないかと、ひそかに楽しみにしている。
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