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2024-01-01

キラー・カーン追悼…アメリカでの出世を見てきた先輩レスラーが語った思い出「運転がヘタ」「本番で力を出すタイプ」【週刊プロレス】

キラー・カーン

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年の瀬に悲報が飛び込んできた。“蒙古の怪人”として日米で活躍したキラー・カーン(本名・小沢正志)が、自身が経営する居酒屋「カンちゃんの人情酒場」で営業中に倒れて救急搬送されたものの亡くなった。カーンといえば“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折ったとして全世界にニュースが流れて一躍有名となり、全米各地で遺恨試合を繰り広げた。

そんなカーンが米国武者修行から大スターに成長するまでを現地で見てきたのがミスター・ヒトこと安達勝治。生前、長年主戦場にしていたカナダ。カルガリーに修行に訪れていたレスラーを思い出を専門紙に連載されていたが、ここでは連載「カルガリーへ来た若武者たち」を再掲してキラー・カーンを追悼する(文中敬称略/橋爪哲也)。

    ★    ★    ★

カーンとは、カルガリーに来る前(79年9月)にフロリダを一緒にサーキットしたんだ。その前、カーンはメキシコにいたんだけど、大きすぎるからという理由で、あまり扱いがよくなかったんだ。それでカール・ゴッチとデューク・ケオムカさん(故人)のルートで、フロリダに転戦してきたんだよ。

オレは日本プロレス時代、若手の頃のカーンも知ってるけど、アメリカで一番成功したレスラーなんじゃないか。フロリダでは4カ月ぐらい一緒でね。ちょうどその頃に、オレとカーンは車の免許を取りにいこうということになったんだ。アメリカでは車が運転できないと、レスラーなんかやっていられないからね。いつも誰かの車に乗せてもらうわけにもいかないしな。

ところがカーンは勘が悪くて、運転がヘタなんだよ。たまたま知り合いに教官がいたから、その人に免許を取らせてもらう約束を取りつけたんだ。ただ、試験だけは受けないといけないからってことで受けに行ったんだけど、カーンは車庫入れの際、目印になってる標識に車をぶつけて(笑)。「もうオレは免許を取れない」って青い顔して戻ってきたよ。あいつ、あんなに大きな体のくせして気が弱いんだ。もうオレは「大丈夫だ。話はつけてるんだから」って慰めるしかなかったよ。
 
結局、免許は取れたんだけど、あいつが運転する車に乗ったことは一度もなかったなぁ…。その後、カーンはジョージア、ダラスへ移っていって。カルガリーに来たのは、ニューヨークで有名になってからだった(84年1月、カルガリー入り)。

あいつのカルガリーデビュー戦の相手はオレだったんだ。久しぶりに会ったもんだから、オレも気合が入りすぎてたのかな? 結果はダブルニードロップを食らってオレの負け。それも2分ほどで。オレも長いことプロレスをやってたけど、その試合が一番短時間で負けたんじゃなかったかな?

そしたらカーンのヤツ、「先輩に勝った試合のビデオテープありますか?」って言ってきやがって。「あるけど、どうするんだ?」って聞いたら、「先輩に恩返しした試合を日本の友達に見せてあげたい」って。冗談じゃない! 「そんなもの見せなくてもいい!」って突っぱねてやったよ。教え子みたいなヤツに短時間でやられた姿、カッコ悪くて見せられるか!

カーンは本番で力を出すタイプで、練習ではうまく力を出せないタイプなんだ。ベンチプレスでもあいつは顔にばっかり力が入るから、腕は太くならず顔ばかりデカくなったんだよ。ベンチプレスで顔を鍛えたのは、あいつぐらいだよ(談)。


<プロフィル>
キラー・カーン…本名・小沢正志。1947年3月6日生まれ、新潟県蒲原郡吉田町(現燕市)出身。中学卒業後、大相撲・春日野部屋に入門。1963年3月に初土俵。越錦の四股名で最高位は幕下40枚目。1970年に廃業すると、翌1971年1月に日本プロレスに入門。吉村道明の付き人を務め、同年11月20日、桜田一男戦でデビュー。1973年4月、坂口征二に付いて新日本プロレスに移籍。同年12月、第1回カール・ゴッチ杯で準優勝。1976年8月に海外武者修行に出発。一時帰国後の1978年にメキシコに再出発してモンゴル人キャラクターに変身。1979年3月にアメリカに渡り、キラー・カーンを名乗る。1980年末にWWF(現WWE)入り。いきなりニューヨークMSG(マディソン・スクエア・ガーデン)のメインイベントでボブ・バックランドの保持するWWFヘビー級王座に挑戦する。1981年5月、ニューヨーク州ロチェスターでの試合でアンドレ・ザ・ジャイアントの右足をニードロップで骨折させたとして世界的に名が轟く。アンドレ復帰後は全米各地で遺恨試合が繰り広げられた。長州力率いる維新軍に加わり、日米を往復しながら参戦。1985年にはジャパン・プロレスに移籍、日本での戦場を全日本プロレスに移す。長州らの新日プロUターンをアメリカで聞いて戦場をWWFに移すも、1987年11月、当然の引退を表明。その後は、歌手として活動するかたわら、新宿区内でスナック、居酒屋、歌謡居酒屋を経営。2023年12月29日、営業中に動脈破裂を起こして救急搬送されるも帰らぬ人となる。76歳だった。

ミスター・ヒト…本名・安達勝治。1942年4月25日生まれ、大阪府大阪市天王寺区出身。出羽の海部屋に入門し、浪速海の四股名で1960年5月場所で初土俵。最高位は幕下17枚目。67年初場所を勝ち越して引退。その後、日本プロレスに入門する。日本プロレス崩壊直前に永源遙とともにアメリカに遠征。トーキョー・ジョーのリングネームでカンザス地区をサーキット。カナダに転戦した際、ミスター・ヒトを名乗る。カルガリー地区のプロモーター、スチュ・ハートに気に入られ、コーチ、トレーナーとしての手腕も発揮。同地に定着しながら西ドイツ(当時)、フロリダ、テキサス、日本、東南アジアなどを転戦する。カルガリーでは自宅のベースメントに若手日本人レスラーの住まわせて面倒を見たほか、日本に外国人レスラーを送り込むブッカーの役割も果たした一方、1988年のカルガリー冬季五輪では日本へのテレビ中継にも貢献。カルガリー地区の衰退ともに現役を引退。1990年10月、SWSのレフェリーとして参加したのを機に帰国。旗揚げ間もないPWCや大日本プロレス、レッスル夢ファクトリーでコーチとしてレスラーを育てる。大阪でお好み焼き店を経営していたが糖尿病悪化により2010年4月20日、大阪市内の病院で死去。67歳。同日、大阪府立体育会館・第2競技場で行われた新日本プロレスの興行で追悼の10カウントゴングが鳴らされた。

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