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2017-06-01

アロハスタジアムに旋風を 開幕ロースター入り目指す日本人RB(ハワイ大・伊藤玄太)

 東急東横線の武蔵小杉駅から15分。法政大学へ向かう足取りは軽かった。鮮やかなブルーの人工芝グラウンドを訪れた目的は、5年ぶりに取材する、本場米国のカレッジフットボール選手に会うため。RBとしていったいどれほど進化しているのか。その姿を想像しただけでも、テンションは高まった。

 私がフットボールの取材を始めたのが2012年。知人に“おもしろいネタがあるよ”と言われて追いかけていたのが、法政二高だった。ネタの正体は、法政伝統のオプション攻撃。自身も法政大で甲子園ボウルに出場した木目田康太オフェンスコーチが中心となって、低迷するチームを改革すべく、この年からオプションを導入していたのだ。オプションの担い手となったのが、後に法政大でもエースとして活躍するQBの鈴木貴史(現アサヒビール)。そして、もう一人が現在はハワイ大でプレーするRBの伊藤玄太だった。

 当時の伊藤の印象はただ一つ。とにかく速い。オープンをまくるスタイルが特徴的なランで、一度独走すると高校レベルで彼を止められる選手はいなかった。この年の神奈川県大会決勝では伊藤がオプションでフィールドを切り裂き、過去3年間一度も勝てなかった慶応高校に雪辱を果たしている。伊藤はどんな性格だったか。プレーは脳裏に焼き付いているのだが、話をしている姿は思い出せない。こちらが質問すると、とてもまじめに受け答えをしてくれた記憶だけが、おぼろげながらよみがえってくる。

 高校時代の伊藤について、木目田さんはこう話す。「とても強い意志を感じる選手でした。実は2012年の春は県大会の1回戦で敗退しているんです。それでもチームに危機感はありませんでした。主将の高橋悟(現富士通)と副将の玄太は、本当に勝ちたいんだという気持ちを訴えてくれた。その時の彼の実直な姿を見て、オフェンスコーチとして最後にボールを託すのはこいつだなと思いました」

 事実、木目田さんは伊藤にボールを託している。引退試合となった秋の関東大会準決勝、中大付属との一戦。試合は中大付属が接戦を制するのだが、法政二高のツーミニッツオフェンスで、第4ダウン4ヤードという絶体絶命のピンチがあった。この状況では10人中9人がパスをコールすると思うが、木目田さんは伊藤のせまいサイドへのピッチスイープをコール。伊藤はその期待に応えて、見事にファーストダウンを獲得した。「今思い返してみても、何であのプレーをコールしたのか説明できません」と木目田さんは笑う。しかし、“最後にボールを託せるのはこいつしかいない”。その思いが無意識に伊藤のランを選択させたのかもしれない。

 2013年10月、伊藤は渡米した。「アメリカでフットボールがしてみたい」。伊藤の中でわきあがる気持ちが、背中を押した。翌年、2年制の公立短大であるサンタモニカ大に入学して、フットボール選手としての挑戦を本格的にスタートさせた。ここ数年、レベルは様々だが、米国でフットボールをプレーする選手は確実に増えている。彼らの多くと異なるのが、伊藤はNFLを目指していないということだ。「NFLのこと、あまり知らないんです。選手もわからない。ぼくはカレッジのファンで、アメリカの大学でフットボールがプレーしたいだけなんです」と伊藤は語る。米国でも多くの選手がそうであるように、伊藤はジュニアカレッジ(短大)からNCAA1部の大学への編入を目指すルートを選んだ。

 167センチ、58キロ。高校2年時の伊藤の体格は、一般人の平均体重と変わらなかった。3年生の時には60キロ台になったが、とても米国でフットボール選手と胸を張れるサイズではなかった。サンタモニカ大で伊藤が受けた扱いは、ある意味で予想されたものだった。チームから支給されるはずの道具がもらえない。ロッカーもない。伊藤はロースター(試合に出場するための登録枠)を争う以前に、選手の一員とみなされていなかった。戦力外となった他の米国人たちは、この時点でチームを去った。だが、伊藤はあきらめなかった。一人だけグラウンドで着替えて、道具は友人に借りた。石にかじりついてでもチームに残る覚悟だった。周りは誰も伊藤のことを気にもとめていなかったが、「アメリカまで来て、何もせずに帰るわけにはいかない」と、練習に食らいついていった。

 何とかチームの一員として認められた伊藤は、1年目をレッドシャツ(練習生)として過ごす。2015年、2年目のシーズンに入ると、明らかにコーチの見る目が変わった。試合出場の機会も増えていき、RBとしてアピールできるようになった。2016年7月18日、NCAA1部、ウェスタン・アスレティック・カンファレンス(WAC)に所属する、ハワイ大から伊藤のもとにオファーが届いた。すぐに家や車を処分して、1週間後の7月24日にはハワイに飛んだ。米カレッジの1部校でプレーするという夢を、大きく手繰り寄せたかに思えた。

 だが、ここでも厳しい現実が待っていた。伊藤は全くプレーの機会を与えてもらえなかったのだ。サンタモニカ大での1年目の記憶がフラッシュバックした。伊藤は当時の悔しさを思い出すようにこう話した。「ハワイ大が僕にオファーをくれたのは、ビジネス目的だったんです。日本人が所属しているというだけで、いろいろ注目されるので、、、」。実際、伊藤はハワイ大を訪れた初日に、ファンだという米国人からサインを求められたという。チームメートもみな、伊藤の存在を知っていた。現地の新聞報道などで、伊藤の存在はそれなりに有名だった。

 当初、戦力としては期待されていなかった伊藤だが、ハワイ大での評価はすぐに変わることになる。ベンチプレス160キロ。スクワット200キロ。40ヤード走4秒5のスピードを維持しながら、昨年の時点で体重を88キロまで増やした伊藤のフィジカルは、米カレッジのRBとしても、堂々たるものだった。高校時代と比較すると、実に30キロものサイズアップに成功していたのだ。1カ月もすると伊藤の実力がコーチ陣やチームメートに認められ、ディフェンスチームの仮想敵役として奮闘した。「秋シーズンにけがで少しだけ練習を休んだことがありました。その時に“ゲンタ、お前がいないと練習できないから、早く戻ってきれくれと”とディフェンスコーチに言われて。その時、ここでもチームの仲間として認められたと実感しました」と伊藤は振り返る。

 秋のロースターは105人。そして、アロハスタジアムで行われるホームゲームでは80人ほどの選手がユニフォームをもらうことができる。その中で、RBとしてユニフォームを着ることができるのはわずかに3〜4人だ。昨年、伊藤はロースターに入るチャンスがあった。キッキングだけなら出場させると、コーチからお墨付きをもらっていたからだ。しかし、伊藤はこれを拒否してサンタモニカの1年目と同様に、練習生として過ごした。「僕はRBとしてプレーしたいんです。貴重な1年を無駄にしたくない」という、伊藤のRBへの強いこだわりだった。

 「高校からフットボールを始めて、ハワイ大でプレーしている今が一番楽しい」と伊藤は断言する。チーム内にNFLへのドラフト指名が確実視されている選手がいるなど、フットボールのレベルが高いこともある。Xリーグに参戦している多くのハワイ大出身の選手やコーチがそうであるように、陽気なアイランダーの気質も伊藤には合っているようだ。だが、何より夢に向かってフットボールに没頭している現在の状況こそが、伊藤に何ものにも変えがたい充足感をもたらしている。

 昨年、UCLAのOL庄島辰尭が公式戦に出場を果たし、「日本人で初めてNCAA1部でプレーした」と話題になった。リーグのレベルは違うが、伊藤がRBとして公式戦に出場すれば、「スキルポジションでの日本人初」となる。原則として出場が1人であるRBの競争は熾烈だ。

 RBとしてロースターに入り、アロハスタジアムでプレーする。伊藤がその夢を叶えられるかどうかは、これから本格的に始まっていく、サマーキャンプのサバイバルレースで決まる。4年前に海を渡った少年は、立派なカレッジフットボール選手へと成長した。ハワイ大のホーム開幕戦は、現地時間の9月2日にアロハスタジアムで行われる。グリーンのジャージーに袖を通した小さなRBが、夢の舞台に立っていることを祈っている。

(松元竜太郎)

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