果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

人気関取との運命の出会い

 暑い夏の陽にさらされた目には薄暗く見える座敷の奥で、父の白い手のひらがヒラヒラと踊っている。こっちに向かって、おいで、おいでをしているのだ。

「だれに来い、と言ってるんだろう」

「貢、オヤジがお前を呼んでるぞ」

 一緒にのぞき見していた遊び仲間のひとりにポンと背中を押され、そのままたたらを踏んで前に飛び出した。

「関取、これがさっきお話ししたウチのセガレです。あの体で、はたして相撲界に入ってもやっていけるのでしょうか」

 心配そうに尋ねる父の声が急に耳に入ってきた。その父の視線の向こうに、びっくりするぐらい若い力士が付け人を二人、後ろに従えてゆったりとソファに座っている。

 フーン、これがあの有名な貴ノ花か。なるほど、この前友達に見せてもらった雑誌に載っていた写真とソックリだ。かっこいいなあ、と思わず見とれていると、その若い関取がこっちを振り向いて、後ろを向いてみろ、と手で合図をしている。慌てて後ろ向きになると、

「オヤジさん、大丈夫ですよ。息子さんは、オレが入門したときよりもずっと大きな体をしているし、体のバランスもよさそうだ。それに、オレはこのギラギラした目付きが気に入ったな。九重部屋は師匠(元横綱千代の山)も横綱(北の富士、のち井筒→九重親方)も明るくていい人だから、辛抱して頑張ればきっとモノになりますよ」

 とその関取が話し始め、父が何度もうなずいているのが見えた。

 少年はそれを見ながら、ああ、これでオレの入門はもう100パーセント決まりだ。ここでこの関取が「その体じゃダメですよ」とまったく逆のことを言ったら、もともとこの話に乗り気薄の父は猛反対して潰れていたかもしれないのに、と心の中で思った。

 これがたまたま千代の富士の故郷の北海道松前郡福島町を巡業で訪れ、父親の松夫さんが手伝いに行っていた水産加工会社の社長室に泊まった当時の人気関取・貴ノ花(のち大関、藤島→二子山親方)との初対面だった。

 もちろん、このとき、まさか運命の女神が21年後、この2年後に生まれた貴ノ花の次男・貴花田に敗れたことが引き金になって大横綱の名を欲しいままにしていた千代の富士が引退する、というドラマが組まれていたとは、誰も思いもしなかった。

 昭和45年(1960)8月23日のことで、千代の富士は福島中学の3年、貴ノ花は20歳。7月の名古屋場所、東前頭7枚目で11勝4敗と大勝ちし、次の秋場所、新小結に昇進することが確実視されているときだった。

 この2日後の8月25日。

「オイ、(入門の誘いに)ウン、と言ったら、飛行機で東京に連れてってやるぞ」

 貢少年は、九重親方の甘い言葉につられてつい首を縦に振ってしまった約束の飛行機で、函館空港から東京に飛び立った。

画像: 中学3年時に入門し、一日3回の稽古に励んだ新弟子時代

中学3年時に入門し、一日3回の稽古に励んだ新弟子時代

頭のテッペンから土俵の砂で真っ黒に

 1473回。

 これが千代の富士が昭和45年11月の九州場所、東序ノ口10枚目に「大秋元(翌46年初場所、千代の冨士と改名)」という四股名で初めて番付に登場してから、平成3年夏場所4日目に引退するまでの22年間に土俵に上がった回数である。その成績は1045勝437敗(不戦敗9を含む)。

 この中に、千代の富士がどうしても忘れられない相撲が3番ある。それによって自分の生活が一変した一番と、運命が一変した一番と、人生が一変した一番だ。

 昆虫が脱皮を重ねてだんだん成虫になるように、千代の富士も、ほかの力士たちがせいぜい1回か多くて2回しかない〝開眼〞を3回もやっているのだ。この巧みな順応力が、あの最も太ったときでも127kgしかなかった小さな体で31回も優勝し、10年間も横綱の座を守ってこれた秘密といっていい。

 貴ノ花の予言どおり、入門した千代の富士の出世は順調だった。序ノ口から幕下を卒業して十両入りするまでちょうど4年間、24場所の下積みを送っているが、この間に負け越したのはわずか4場所(このほかに、ケガで休場が2場所ある)。

 しかし、ただ持って生まれた素質や、松前の海で漁師の父親を手伝いながら鍛えた足腰の良さだけで勝っていたわけではない。すでに当時から名うての負けず嫌い。このトントン拍子の出世の裏に目を見張るような稽古量が秘められていたのは言うまでもない。

「とにかくあのころは朝から晩まで無我夢中。自分の体の小さなことなど、考えている暇はなかった。稽古でも、一日に最低3回はやったなあ。まず自分と同じくらいのヤツらとやって、その次が古株の兄弟子。最後に、よく君ケ濱親方(元関脇北瀬海)に、オイ、来いって、アンマをさせられたよ。あの人は、重心が低くて思いっきり当たりづらいうえに、腕力がすごく強いんだ。あれは一種の恐怖だったなあ。たまに君ケ濱親方のお呼びがかからないときは、ウチの親方(元横綱北の富士)に、夕べちょっと飲みすぎたから、お前ぐらいがちょうどいいって、二日酔いのクスリにされてネ。毎日、頭のテッペンから土俵の砂で真っ黒になっていたよ」

 引退後、年寄「陣幕」(のち九重)となった千代の富士は、懐かしそうにこの苦闘の時代を振り返った。(続く)

PROFILE
ちよのふじ・みつぐ◎本名・秋元貢。昭和30年(1955)6月1日生まれ。北海道松前郡福島町出身。九重部屋。183㎝127㎏。昭和45年秋場所初土俵、49年九州場所新十両、50年秋場所新入幕。56年初場所で幕内初優勝。最高位は横綱。幕内通算81場所、807勝253敗144休。優勝31回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞5回。平成元年(1989)9月、角界初の国民栄誉賞受賞。平成3年夏場所4日目に引退。年寄陣幕から、4年4月に部屋を引き継ぎ九重と名跡交換。大関千代大海(現九重親方)や小結千代天山、千代鳳、千代大龍らを育てた。平成28年7月31日、膵臓がんのため死去。享年61歳。

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