果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】北海道福島中学3年の夏、人気力士貴ノ花と出会い、故郷の大先輩である九重親方(元横綱千代の山)に連れられ上京した千代の富士。九重部屋へ入門後は、一日3回以上の稽古で、全身が砂で真っ黒になるまで稽古に明け暮れ、出世街道を歩んでいた――

大きな相手をぶん投げる快感

 入門から5年目の昭和49年秋場所千秋楽、千代の富士は相撲界に入って初めてのビッグチャンスをつかんだ。東幕下11枚目という全勝する以外に十両の座に手が届かない厳しい地位で、初日からまさかの6連勝をやってのけたのだ。

 いよいよあと一つ勝てば待望の十両、という最後の相手は、逆に7勝7敗でこの一番に負けると幕下陥落が決まるという体重130kg余りの十両・玄武(最高位東十両7枚目、立浪部屋)だった。そのころの千代の富士の体重は96kg。

「ここで勝てば、これからのオレの人生が変わっちゃうんだなあ」

 昇進プレッシャーでいまにも体が爆発してしまいそうな千代の富士には、雲にも届きそうな大男に見えた。

 相撲は、大勝負になればなるほど図太さを発揮する千代の富士ペースだった。立ち合い、すぐ得意の左上手を取って右四つになると、頭もつけ、もうこれ以上はないという体勢に持ち込んだのだ。

 しかし、これに自分の〝死活〞がかかっている玄武も必死。不利な体勢にもかかわらず、巨体にモノをいわせて寄って出ると、軽量の千代の富士はズルズルと後退。それをまた懸命に土俵中央に寄り返す、という激しい攻防を繰り返し、勝負はもつれにもつれた。

 壮絶なサバイバル戦。これに決着をつけたのは、何度目かの玄武の寄りを残した千代の富士が、土俵際で回り込みながら打った左からの上手投げだった。

「どうだい、オレの投げのキレ味は。相撲はやっぱりこうして勝たなくっちゃ」

 頭の芯までシビレそうな疲労に耐えながら、千代の富士は体の奥からこみ上げて来る十両昇進の金的を見事射止めた喜びと、自分の1・5倍もある強敵を鮮やかに投げ飛ばしたことの二重の快感を抑えることができなかった。しかし、この投げに対するこだわりが、のちに自分を苦しめることに。

 このあと、琴の郷(佐渡ケ嶽)との優勝決定戦にも勝って幕下優勝。後年、千代の富士は6戦6勝と幕内の優勝決定戦でパーフェクト勝利を記録したが、すでにその萌芽はこのときからあったのだ。千代の富士、19歳3カ月。昭和30年代生まれの十両昇進第1号だった。 

画像: 昭和54年春場所7日目の播竜山戦で、初めて右肩を脱臼

昭和54年春場所7日目の播竜山戦で、初めて右肩を脱臼

引退よぎる、悪夢の右肩脱臼―

 千代の富士というと、すぐ反射的に思い浮かぶのが肩の脱臼だ。先天的に肩の関節のかみ合う部分は浅く外れやすい体質と、腕力にモノをいわせて相手を投げ飛ばさないと気が済まない強引な相撲が重なって引き起こしたもので、主だったものだけでも左肩が9回、右肩が2回の計11回も脱臼している。

 これ以外に、「稽古中にカクンと抜け、慌てて自分で入れたことも数えきれないぐらいある」という。

 このやっかいな持病のために、幕内から幕下まで転落(昭和51年春、夏場所)するなど、低迷が続いた千代の富士はすっかりやる気を失い、一時はプロレス入りの噂も出るほど。

 こんなとき、失意の千代の富士をさらに打ちのめす故障が起こった。昭和54年春場所7日目の播竜山戦で、それまで抜けるのは左肩だけで、「こっちだけは、絶対に大丈夫」と自信を持っていた右肩が脱臼してしまったのだ。

「オレの体は、もうどこもダメなんだ」

 千代の富士のショックは、計り知れないものだった。この地獄を抜け出す階段は2つしかなかった。思い切って手術するか、それとも力士を辞めるか、だ。

「手術すると、完治するまで2年掛かるというんだ。そうすると、番付は幕内から序ノ口まで落っこちちゃうもんネ。いくらオレでも、そこからもう一度やり直す気力なないもんネ。じゃあ、辞めるしかない。あのときは、ホントに引退することを考えたよ。まだ23歳だったけど。そんなとき、お世話になっていた藤井先生(三重県四日市市の四日市中央病院の院長)に、『辞めるのはいつでもできる、もう一度肩に筋肉の鎧をつけてやってみろ』とアドバイスされたんだ。ちょうど肩の痛みが取れて、このまま死ねるか、という気がムラムラッと湧いてきたところだったからネ。これをしっかりやったら、もう肩が抜けることはないんだ、という先生の言葉を励みに、必死で肩に筋肉をつけるためのウエート・トレをやったよ。一番手っ取り早くて効果的なトレーニングは、腕立て伏せ。一日、最低でも500回、というノルマを決め、これを達成しないうちは寝ないことにしたんだ。そのうちに腕から肩にかけて筋肉がモリモリになって、指でつまんでもつまめないぐらい張ってきたよ」

 と、千代の富士は再び光明を見い出したときのことについて語っている。この体質改善と同時に、それまで相手を土俵の砂にたたきつけないと気が済まなかった投げ技中心の相撲も、左の前ミツを引いて一気に前に出る正攻法にモデルチェンジした。

 これが大成功して、1年後の昭和55年の春場所からグングン頭角を現し、そして昭和56年初場所の初日を迎えた。(続く)

PROFILE
ちよのふじ・みつぐ◎本名・秋元貢。昭和30年(1955)6月1日生まれ。北海道松前郡福島町出身。九重部屋。183㎝127㎏。昭和45年秋場所初土俵、49年九州場所新十両、50年秋場所新入幕。56年初場所で幕内初優勝。最高位は横綱。幕内通算81場所、807勝253敗144休。優勝31回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞5回。平成元年(1989)9月、角界初の国民栄誉賞受賞。平成3年夏場所4日目に引退。年寄陣幕から、4年4月に部屋を引き継ぎ九重と名跡交換。大関千代大海(現九重親方)や小結千代天山、千代鳳、千代大龍らを育てた。平成28年7月31日、膵臓がんのため死去。享年61歳。

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