果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】入門からまもなく、電話をかけた病院の交換手から5日前の父の死を告げられた隆の里。父からの手紙を読み返すうち、父の真意を知り早く一人前の関取になって墓参りに帰ることを胸に誓った――

同期のライバル、天才力士の後塵を拝す

 それから19年後の平成元年(1989)2月19日に、このときの約束通り功成り名遂げた隆の里は、千葉県松戸市八ケ崎に鉄筋二階建ての「鳴戸部屋」を興し、たくさんのお客を招いて部屋開きをした。

 その夜、ようやくお客も帰り、しんと静まり返った大広間で、隆の里はあれから何度も広げて読んだためにすっかりくしゃくしゃになったおやじの古ぼけた手紙を取り出し、読んでいるうちに、酔いと疲れでその場に眠り込んでしまった。

 この夜中、関東地方に震度4の地震があった。ガタガタッという大きな家鳴りで目が覚めた隆の里は、

「あっ、おやじが、俊英、よくやったなあ、と大笑いしてる」

 と思い、いつしか自分も揺れる部屋の中で笑っているのに気付いた。

 つまるところ、力士は楽天家でないとやっていけない、と隆の里は思っている。そうでないと、辛いことや、耐え難いことが多すぎて、とても神経がもたないからだ。

 隆の里の初土俵は、昭和43年(1968)名古屋場所。その年の6月、隣町の大鰐町出身で、一つ年下の若乃花(2代目、本名下山勝則、元横綱、当時間垣親方)と一緒に二子山親方にスカウトされ、夜汽車に揺られて上京してきた話は有名だ。

 この一番身近なライバルの若乃花に、隆の里はことごとく遅れを取った。その皮切りがこの初土俵のときで、若乃花は一番出世、隆の里は二番出世だった。

 二子山部屋の名古屋の宿舎は、天白区八事にある「仏地院」である。青森県の片隅からこの名古屋に初めて連れられてきて1カ月余り。いつも若乃花と一緒にくっついて行動していた隆の里は、このいきなりスタートから遅れをとってしまった悔しさよりも、

「さあ、あしたから、どうやってひとりで場所の行われてる愛知県体育館に通ったらいいのか」

 と、乗り継ぎの心配で胸がいっぱいになったのを、引退後も昨日のことのように鮮明に思い出していた。

 三段目も、幕下もすべてこの美男の天才力士の後塵を排した。でも、その差はだんだん縮まってきている。

 大相撲界で、もっとも狭間が広くて深いのは十両と幕下の間である。昭和48年名古屋場所、若乃花はその狭間の向こう側の新十両だった。隆の里は、こちら側の幕下の東の5枚目。あと一歩で、待望の向こう側の力士になれるところまで来ていた。

関取直前で突然、突き落とされた谷底

画像: 幕下時代、同期でライバルの下山(のち2代若乃花)と激しい稽古を積む隆の里

幕下時代、同期でライバルの下山(のち2代若乃花)と激しい稽古を積む隆の里

 ここが、頑張りどころ、隆の里は目の色を変えて土俵に上がり、千秋楽まで3勝3敗の五分できた。周囲の状況から、残された最後の一番に勝てば、十両入りはほぼ確定的。天国と地獄の別れ道があるとすれば、ここだった。

 相手は押しの播竜山(元小結、現待乳山親方)だった。隆の里は、思い切って頭から当たると、自分十分の右四つに組み止めた。

 さあ、ここで差し手を返せ。思い切って出ろ。寄っておいて投げを打つんだ。完全な勝ちパターンで、頭の中は忙しく回転した。

 ところが、この肝心なところで、体が脱力感に襲われてまるで動いてくれない。体の奥深いところで、何とかとんでもない異常が起こったのだ。勝機をものにできなかった隆の里に、もう勝ち目は残っていなかった。

 イヤイヤしながらとうとう逆転負けを喫し、ついに3勝4敗と負け越し。十両の座が遠のいたことと、体調異変のダブルパンチに打ちのめされた隆の里の場所後の最初の仕事は、おかみさんと一緒に病院に行くことだった。

「糖尿病」

 これが日大駿河台病院の下した判断だった。

「どんな社会でもそうだと思うけど、落ち目の人間に対しては、みんな冷ややかですからね。アイツは糖尿だ、糖尿だ、と随分、馬鹿にされましたよ。それがなによりも辛かったなあ。もちろん、オレに口をきいてくれる後援者なんて、ひとりもいませんよ。貴ノ花(元大関、当時藤島親方)や若乃花のまわりには、黒山のように群がっていましたけどね。まわりの人に無視されるというのは、耐え難いものですよ。でも、ここでギブアップしたらおしまい。そう思って、歯を食いしばってこの病気と真っ向から闘うことにしたんです。それまで浴びるように飲んでいた酒も、プッツリと断ってね」

 隆の里は後年、幕下時代の谷底に突き落とされた日の話になると、あの悔しさと絶望感を思い出しては指先がワナワナと震えた。20歳の若者にとって、それはあまりにも大きな試練だった。(続く)

PROFILE
たかのさと・としひで◎本名・高谷俊英。昭和27年(1952)9月29日生まれ。青森県青森市浪岡出身。二子山部屋。182㎝159㎏。昭和43年名古屋場所初土俵、49年九州場所新十両、50年夏場所新入幕。大関時代の57年秋場所、全勝で初優勝。58年名古屋場所後、横綱昇進。幕内通算58場所、464勝313敗80休。優勝4回、殊勲賞2回、敢闘賞5回。61初場所2日目、引退。千葉県松戸市に鳴戸部屋を創設し、。横綱稀勢の里、大関髙安、関脇若の里、隆乃若を育てた。平成23年(2011)11月7日死去、59歳。

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