果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】同期のライバル若乃花に追いつこうと、十両昇進へ向け稽古に励む隆の里だったが、勝てば関取昇進の一番で力なく負けてしまう。脱力感に襲われ、病院で精密検査を受けた結果、くだされた診断は「糖尿病」だった…

力士生活に大きな影響を与える、ある人との出会い

 こうして、大きく出世階段を踏み外した隆の里が、再び立ち直るのに、それから1年余りもかかった。この間に、隆の里は、自分の力士生活に大きな影響を与えたある人物とひょんなことから知り合いになった。名古屋の名城大のウエート・リフティング部の佐藤功監督である。糖尿病の発病からちょうど1年後の昭和49年(1974)7月のことだった。

「落ちた体力を元に戻すには、筋力をつけるしかない。そう思って、それまでも我流でウエート・トレの真似ごとをしたり、プロテインを飲んだりしていたんだけど、その道の専門家が横から見ていたら、見ていられなかったんでしょうねえ。そのころ、毎日のように稽古を見にきていた佐藤さんが、『いっぺん大学に見に来ませんか』と誘い、いろいろトレーニングの仕方を教えてくれたんですよ。これが私とウエート・トレの長い付き合いの始まりで、佐藤さんは2人目の師匠。いまでこそ力士のウエート・トレは珍しくもなんともなくなったけど、おそらくオレがこれを本格的に取り入れた力士の第1号じゃないかなあ。一病息災というけど、オレは糖尿病になったおかげでウエート・トレと遭遇し、横綱にもなれたんですよ。そのときはショックで涙も出なかったけど、いまでは糖尿病にかかったことを感謝しています」

 なるほど、隆の里はピンチをチャンスにする名人、楽天家のかたまりである。

画像: 新十両の昭和49年九州場所、晴れの土俵入りの舞台に上る隆の里

新十両の昭和49年九州場所、晴れの土俵入りの舞台に上る隆の里

関取の切符よりうれしかった、父の墓参り

 病気で大きく後退した隆の里に2度目の十両入りの好機が訪れたのは、失意の昭和48年名古屋場所から7場所後の49年秋場所のことだった。このときの番付は西の幕下筆頭。もう本当に十両は目と鼻の先だった。

 ようやく糖尿病のコントロールに成功し、134キロから21キロ減の113キロまで落ちていた体重も120キロ台まで回復してきたときで、6番取って、またまた成績は3勝3敗の五分。関取になれるか、なれないかは、最後の一番にかかることになった。

 この運命の7番相撲の相手は、150キロ余りもある春日洋(春日野部屋)だった。隆の里は、この巨漢が苦手で、これまで何度も痛い目に遭わされている。

 しかも、このときの東の幕下筆頭は同じ二子山部屋の小兵の若双龍で、すでにこちらは早々と勝ち越して十両入りを決めていた。

「ああ、またコイツにも先を越されるのか」

 と隆の里は半分、焦っていた。ただ救いはこの場所前の長い巡業で、

「これを倒さないと、オレは十両には上がれない」

 と春日洋に目標をしぼり、その攻略法をみっちり練ってきたことだった。

「いま思うと、あの巡業中のオレは随分、図々しかったなあ。たまたまあのとき、師匠がお目付け役としてついてきて、お前ら、遠慮なんか、せんでいいから、誰とでもドンドンやれ、とみんなの尻を叩いていたんですよ。そのことばに甘えさせてもらって、向こうの春日洋関は十両なのに、『アンマ、ごっつぁんです』と山ゲイコしているところに割り込んでいったんです。それも何度も。向こうはヘンな顔をしていましたけど、こっちは必死ですから、そんなことに構っちゃいられません。おかげで、東京に帰るころは、こういったら勝てる、というものがなんとかおぼろげながらつかめてきた。いまの力士はみんなおとなしいですから、もうオレみたいな非常識な力士はいくら探しても見つかりませんよ」

 隆の里は、当時を振り返って苦笑いをしたが、このくらいやらないと、昇進できる確率は13分の1、といわれる十両の壁はなかなか破れないものかもしれない。

 このなりふりかまわぬ執念と努力が最後の最後でものをいった。勝負はもつれたものの、隆の里の辛勝。とうとう4勝3敗と勝ち越し、十両の座をその手でしっかりとつかんだのだ。

「それから9年後の昭和58年の名古屋場所後、横綱にもなったんですが、そのときは、正直いってうれしさよりも、大変だ、という気持ちの方が強かった。師匠にも、昇進する前にいろいろ脅かされていましたからね。でも、あの十両の切符をつかんだときは、素直にうれしかったですねえ。何が一番うれしかったかって? そりゃあ、もちろん、これで関取になれる、ということもありましたけど、田舎に初めて帰って、おやじの墓参りができることですよ。ただいま、と実家の玄関を開けたら、おふくろが泣いて迎えてくれました」

 隆の里が力士になるために15歳で家を出て7年目。父の市智男さんが亡くなって5年目のことだった。(終。来週からは関脇高見山編です)

PROFILE
たかのさと・としひで◎本名・高谷俊英。昭和27年(1952)9月29日生まれ。青森県青森市浪岡出身。二子山部屋。182㎝159㎏。昭和43年名古屋場所初土俵、49年九州場所新十両、50年夏場所新入幕。大関時代の57年秋場所、全勝で初優勝。58年名古屋場所後、横綱昇進。幕内通算58場所、464勝313敗80休。優勝4回、殊勲賞2回、敢闘賞5回。61初場所2日目、引退。千葉県松戸市に鳴戸部屋を創設し、。横綱稀勢の里、大関髙安、関脇若の里、隆乃若を育てた。平成23年(2011)11月7日死去、59歳。

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