果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

ハワイ巡業の〝客寄せパンダ〞として入門

 またもうすぐ2月がやってくる。

「最近、ニッポンの冬は随分あったかくなったなあ。神さま、優し過ぎるネ」

 と、冬晴れの雲一つない青空をまぶしそうに見上げながら、ジェシー(元関脇高見山、平成4年<1992>当時東関親方、47歳)は心の中でつぶやいた。

 東京オリンピックを8カ月後に控えて、日本中があわただしい雰囲気に包まれていた昭和39年(1964)2月22日。この日の日本は、シベリアから張り出してきたこの冬一番の大寒気団にすっぽりと覆われ、夕方になると、とうとう北風に白いモノがチラホラと混じるようになった。

 午後9時20分、凍てついた羽田空港に常夏のハワイのホノルル発の日航機が到着。出発するときにママのリリアンが掛けてくれたレイを着けてタラップを降りかけたジェシーは、あまりの寒さに、

「ここはホントにトーキョーかい。シベリアの間違いじゃないの」

 と慌てて首をすくめ、暖房のよく効いている機内に駆け戻ろうとしたが、耳元で突然、

「ジェシー、帰ってきちゃダメ。日本に行って絶対セキトリになり、うんとマネーを稼いでくるから、しばらくボクをフリーにして、と言ったのは、あなたじゃないの。頑張るのよ」

 と有り金をはたいて背広と旅行カバンを買い、涙をポロポロこぼしながら見送ってくれたママの怒っている声が聞こえたような気がして、ピクッと動きを止めた。この寒くて、意地悪そうな東洋の異国がこれからオレの戦場。ゴー・フォア・ブレイク(当たって砕けろ)で、前に突進するしかないのだ。

 意を決したジェシーは、目をつぶって回れ右をすると、向こうのターミナルビルまで聞こえそうな大きなくしゃみをたて続けに3回し、そのまま一気にタラップを駆け降りて行った。

 この2年前の昭和37年6月、高砂親方(4代、元横綱前田山)を団長とする大相撲団は、ホノルルで戦後2回目の巡業を行った。参加した関取は、横綱大鵬、柏戸ら23人。その中に、NHKの相撲解説者をしている出羽錦さん(元関脇)もいた。

「出発する前、高砂親方が、あんたんとこからは、これとこれを貸してくれ、とあっちこっちの部屋を駆けずり回って集めたんだよ。向こうでは、取組前に現地の若者を集めて相撲の指導をするなど、いろんなことをやったなあ。その中にジェシーがいたんだ。オレも胸を貸したんだけど、それが終わった後で高砂親方が隅の方に呼んで、『オイ、あの一番体の大きいジェシーって子が入門したいって、言ってるんだけど、モノになりそうかい』と聞くんだよ。オレは、当時からなんでもズバズバ言ってたからネ。『確かに当たりは一番よかったけど、下半身がモロいのでダメですネ』とハッキリ言ったんだ。でも、それからしばらくして国際情勢などをいろいろ考え、『相撲はダメですけど、また近いうちにこのハワイで巡業をやるんでしょう。そのときのために入門させとくと、便利。決して損にはなりませんよ』と訂正し、それで高砂親方の気持ちも弟子入りさせる方向に大きく傾いていったんだ。あのとき、オレが訂正していなかったら、高見山は生まれていなかったかもしれないよ」

 と、出羽錦さんは、このジェシーがハワイ出身の力士第1号として来日することになったいきさつを披露する。つまり、ジェシーは将来のハワイ巡業を見込んだ〝客寄せパンダ〞だったのだ。

 羽田に降り立ったときの年齢は、19歳8カ月。身長189センチ、体重115キロだった。

画像: 入門間もないころ、股割りに悲鳴を上げるジェシーこと高見山

入門間もないころ、股割りに悲鳴を上げるジェシーこと高見山

〝プッシュ、プッシュ〞の地獄の日々

 ジェシーが入門したとき、高砂部屋には60人を超える弟子がいた。ところが、これだけの大所帯にもかかわらず、トイレはわずか2つ。十両以上の関取専用が一つで、ジェシーら幕下以下の若い者用が一つだ。この一つを50人余りが使うのだから、朝のラッシュ時は順番取りにそれこれ命がけだった。

 便意を催し、せっぱ詰まってからではとても間に合わない。当時JR両国駅の東口近くにあった高砂部屋に連れてこられ、約10日間のお客さま扱いが終わって他の日本人の弟子たちと全く同じ大部屋に雑魚寝の生活が始まると、ジェシーは真っ先にこのトイレの順番取りを覚えた。

 毎朝、午前3時に起きると、出したくても、出したくなくても、まず若い者用のトイレの前にできている行列の一番後ろにペタリと座り込む。

「自分の順番がくるまで、またウツラウツラしながらジッと待つのヨ。長く待って、さあ、自分の番、というときに、幕下の古い兄弟子に、『ちょっと待て、オレが先だ』と割り込まれると、頭にきてネ」

 と、ジェシーは27年前を振り返って苦笑いする。

 稽古も、超ハードだった。上半身のパワーはまさに日本人離れしていたが、小さいころに自動車事故に遭ったこともあって、下半身がモロいという大きな欠点を抱えていたジェシーは、親方たちのおもちゃ。

 毎日、「ホラ、ジェシー、出てこい」「ソラ、思い切ってぶつかれ」と高砂部屋名物の〝荒稽古〞の犠牲者になった。

「師匠が言うのは、いつもプッシュ、プッシュだけ。四つになると、よく竹ぼうきで、『どうして四つになるんだ、わかった、この手が廻しを欲しがるんだな』と手やお尻を叩かれたヨ。オレのために、毎日1本は竹ぼうきが壊れていたんじゃないかなあ。昔は叩くのが当たり前だったからネ。でも、一番つらかったのは、ぶつかり稽古だった。当時の春日山親方(元大関名寄岩)はとっても厳しい人でネ。さあ、ジェシー、100回押せ、と言うと、すぐ側で、『あと96回、あと95回』と最後のゼロになるまで数えているんだ。それも毎日、日本に来て最初の1年間は、稽古場に下りても、いつ、ジェシーと名前を呼ばれるか、ドキドキしっぱなし。やっと稽古が終わっても、また明日、こんな辛い思いをするのか、と思うと、時間が経つのが怖くって。いつもハワイに帰ることばかり考えていたヨ」

 ジェシーにとって、慣れない日本での辛い日々が続いた。(続く)

PROFILE
高見山大五郎◎本名・渡辺大五郎。昭和19年(1944)6月16日生まれ。米国ハワイ州マウイ島出身。米国名はジェシー・クハウルア。高砂部屋。192㎝205㎏。昭和39年春場所初土俵、42年春場所新十両、43年初場所新入幕。47年名古屋場所、外国出身力士初の優勝を遂げる。幕内通算97場所、683勝750敗22休。優勝1回、殊勲賞6回、敢闘賞5回。40歳になる1月前の59年夏場所限りで引退。61年2月に分家し、東関部屋を創設、横綱曙らを育てた。

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