画像: 日本柔道オリンピック
金メダリスト列伝【第4回】

斉藤 仁
1984年ロサンゼルス五輪
1988年ソウル五輪
95kg超級 金メダリスト

柔道が初めてオリンピックの正式競技となった1964年東京大会から昨年のリオ五輪まで、“柔道王国”日本は史上最多のメダルを獲得してきた。そして、その長い歴史の中で燦然と輝くのは卓越した技量で他を圧倒し、表彰台の頂点を極めた金メダリストたちだ。ここでは、54年前の各階級のレジェンドから直近の大野将平、ベイカー茉秋、田知本遥まで、『日本柔道オリンピック金メダリスト列伝』として1人ずつ紹介。今回は、84年ロサンゼルス大会と88年ソウル大会の95kg超級で見事に2連覇を成し遂げた斉藤仁選手をクローズアップする。(※文中敬称略)

画像: 柔道が初めてオリンピックの正式競技となった1964年東京大会から昨年のリオ五輪まで、“柔道王国”日本は史上最多のメダルを獲得してきた。そして、その長い歴史の中で燦然と輝くのは卓越した技量で他を圧倒し、表彰台の頂点を極めた金メダリストたちだ。ここでは、54年前の各階級のレジェンドから直近の大野将平、ベイカー茉秋、田知本遥まで、『日本柔道オリンピック金メダリスト列伝』として1人ずつ紹介。今回は、84年ロサンゼルス大会と88年ソウル大会の95kg超級で見事に2連覇を成し遂げた斉藤仁選手をクローズアップする。(※文中敬称略)

じょっぱり精神で戦い、
五輪連覇で日本柔道のプライドを
守った夭折の柔道家

 斉藤仁は、これから日本の柔道界を山下泰裕とのタッグで支えていかなくてはならない柔道家だった。だが、世の中は非情だ。2015年1月20日、肝内胆管ガンのため54歳の若さで夭逝。本人の無念さは想像に難くないが、日本柔道界の損失も大きい。津軽生まれのじょっぱりだが、明るく、新生・全柔連にあって強化部門の責任者としての活躍が期待されていただけに、多くの柔道関係者からは「惜しい人材をなくした」との思いが強く伝わってきた。

 斉藤は五輪で2回優勝している。重量級選手では唯一人の偉業だ。世界も全日本も獲っているので、いわゆる“3冠柔道家”ということになる。最初のロス五輪優勝は23歳と、心技体すべて全盛のときだった。決勝でパリジ(フランス)に「指導」勝ち。山下とのダブル優勝だった。ソウル五輪では準決勝で趙容徹(韓国)に「指導1」を与えた後、趙が試合放棄。決勝ではストール(東ドイツ)を押しまくり、「指導3」対「指導1」で勝利して、日本にようやく1つの金メダルをもたらした。

 実はソウルでは、古賀稔彦や山本洋祐といった金メダル候補が敗れ、最終日まで金は0。斉藤に日本柔道界金メダル死守の思いが託された。試合では技なし。斉藤は、ひたすら前に出続けた。85年の世界選手権で趙に食らった反則気味の脇固めによる左肘後遺症や、87年に負った右膝靱帯断裂の痛みも忘れていた。ここぞというときに、じょっぱり精神が発揮されたのだ。

 会場は銅鑼や鉦が鳴り響き、韓国ファンが太極旗を押し立てて走り回り、ストールや趙を応援。反日感情が爆発していた。こんな完全アウェーの中でも、斉藤は最後まで怯まなかった。そして、日本柔道はプライドを守った。超級での金メダルだけに斉藤が勝った瞬間、首脳陣は皆、泣いた。

 斉藤は山下が全日本の監督のときに最年少でコーチになった。明朗な性格と、じょっぱり精神で年上にかわいがられ、選手には一目置かれた。山下が監督を退くときには「先輩、自分が必要なときはいつでも押っ取り刀で駆けつけますよ」と力んでいた。そんな義理人情の男でもあった。病床で日本柔道の行方を心配しながら力尽きた斉藤。だが、五輪連覇の3冠柔道家の偉業は、永遠に記録と記憶に残った。


Profile
さいとう・ひとし 1961年1月2日生まれ、青森県青森市出身。筒井中‐国士舘高‐国士舘大。83年モスクワ世界選手権無差別優勝、84年ロサンゼルス五輪95kg超級優勝、88年ソウル五輪95kg超級優勝。全日本選手権では88年に栄冠に輝いた。

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