果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】血のにじむような猛稽古が実を結び、初土俵から19場所目で待望の十両入りを果たしたジェシー。しかし、タイミング悪く、幕内、十両の定員を大幅に削減することが決まり、10勝以上を挙げなければ残留が果たせないという――

土俵際に立たされ、〝プッシュ相撲〞が開眼

「きっと外国人のオレを関取にしておきたくないのよ」

 昭和42年(1967)、注目の春場所が始まった。初日、この枚数制限のことで頭がいっぱいで、いつものように場所が近付いてきてもなかなか心が高揚してこないジェシーは、そのエンジンのあったまりの悪さを浮き彫りにするように、嵐山(宮城野部屋)に完敗だった。懐に飛び込まれ、なんにも抵抗らしい抵抗をしないうちに土俵を割っていたのだ。

 こんなに動きが悪いようでは、二ケタはおろか、勝ち越すのもムリ。エエイ、もうなるようにしかならないじゃないか。

 そして、ジェシーの相撲人生の分岐点となる2日目を迎えた。この日の相手は、ベテランの松前山(九重部屋)。初日の敗戦ですっかり開き直ったジェシーは、立ち合いから思い切って飛び込んでこようとする松前山の顔を目がけて突っ張った。

 すると、ついさっきの仕切りのときまで、

「こんな外国人野郎に負けてたまるか」

 と言わんばかりに怖い顔でジェシーをにらみつけていた松前山が顔を苦しそうにゆがめ、スーッと後退を。

 今だ! あとはもう無我夢中。気がつくと、ジェシーはこの松前山が後退したところをつけ入って一気に押し出していた。

「まさか」

 とジェシーは信じられないような思いで、思わず自分の方に高々と上がっている行司の軍配を2度も3度も振り返った。この精神的に一番苦しく、落ち込んでいるときに、入門以来、師匠の高砂親方に竹ぼうきで叩かれながら教わった100点満点の〝プッシュ相撲〞が取れたのだ。

 こうやって取れば、明日も勝てるかもしれない。目からウロコが落ちるというのはこのことで、この快勝ですっかり生気を取り戻したジェシーは、この日を境に別人のように土俵狭しと暴れまくり、なんと5連勝。その後も面白いように白星を積み重ねて、とうとう十両残留ボーダーラインの10勝を軽々と挙げてしまった。

画像: 昭和47年名古屋場所、外国出身力士として初の優勝を遂げた高見山。旗手は同部屋の富士櫻、右は前の山

昭和47年名古屋場所、外国出身力士として初の優勝を遂げた高見山。旗手は同部屋の富士櫻、右は前の山

会心の一番を機にのち初優勝、金星12個獲得

「先々代の師匠(元横綱前田山、4代高砂)は、いい相撲で勝ったときは何も言わなかった。『そうやって勝つようにオレが教えてんじゃないか』という顔つきでネ。その代わり、負けると怖かったなあ。一番怖かったのは、貴ノ花(のち大関)に初対戦でなんにもしないで負けたとき(昭和44年初場所12日目)だった。『どうしてお前はオレの教えたような相撲を取らないんだ。もうハワイに帰れ』って怒鳴られて、(午後)8時には部屋の電気のスイッチをバチンって切られちゃったよ。でも、そんな中で例外が1回だけあった。あの松前山に勝ったときで、『あれがお前の相撲だ。これからあんな相撲を取るんだぞっ』て、初めてホメられた。もしあそこであんないい相撲が取れなかったら、オレ、多分、あの場所で負け越して幕下に落ちているな。そうなってたら、こんな(気弱な)性格だから、もう一度盛り返して十両にカムバックできていたかどうか、わからない。あの昭和47年(名古屋場所)の優勝も、残念ながら目標の40歳まであと26日足りなかったけど、あんなに長く関取で頑張れることもなかったかもしれない。その後、金星を12個取ったけど(史上2位)、オレにとって最も忘れられない白星は、あの松前山戦よ」

 とジェシーはきっぱり言った。この日、ジェシーはその後17年間、関取「高見山として日本中のファンに慕われ、活躍することになる貴重な〝メシのタネ〞を拾ったのだ。

 今や、たいへんな外国人力士ブーム。平成3年九州場所も11人のハワイ出身力士が土俵に上がり、初土俵から14場所目という史上3位のスピード入幕(年6場所制になってから)を果たした新入幕の武蔵丸も11勝4敗の好成績を挙げ、敢闘賞を受賞した。

 このブームの先駆者であるジェシーは、昭和61年2月2日に分家独立して「東関部屋」を興し、曙ら15人の弟子の師匠(当時)。自分の現役時代を振り返って、一つだけ残念なことがあるという。

「オレがどんなつらい稽古をしたか。今みたいな手軽なビデオカメラがあのころあったら、ぜひ撮っておきたかったなあ。それを見せたら、みんな、もっと一生懸命稽古するはずからネ。今の連中、稽古が足りないよ。ウチの猛(たける、当時幕下)に、『お前は立ち合いの突っ込みがないから、毎日50回ずつ、立ち合いの稽古をしろ』と言っても、言ったときだけ、それも2~3回でおしまいネ。見ていてイライラするよ」

 来日して28年目。あの輝くような若さはさすがにカゲを潜めたが、もうすっかり貫禄がつき、かつてジェシーを追い回した元前田山の高砂親方を、どこか彷彿させるリッパな師匠になった。(終。次回からは大関・琴風豪規編です)

PROFILE
高見山大五郎◎本名・渡辺大五郎。昭和19年(1944)6月16日生まれ。米国ハワイ州マウイ島出身。米国名はジェシー・クハウルア。高砂部屋。192㎝205㎏。昭和39年春場所初土俵、42年春場所新十両、43年初場所新入幕。47年名古屋場所、外国出身力士初の優勝を遂げる。幕内通算97場所、683勝750敗22休。優勝1回、殊勲賞6回、敢闘賞5回。40歳になる1月前の59年夏場所限りで引退。61年2月に分家し、東関部屋を創設、横綱曙らを育てた。

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