果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】横綱琴櫻の内弟子として、中学在学中に入門した琴風。先代の元琴錦の佐渡ケ嶽部屋で稽古を積んでいたが、琴櫻が独立して部屋を興そうとしたとき、先代が琴風を手放さないという。入門時の約束をホゴにされ、力士をやめようとしたが――

※19歳8カ月で入幕を果たし、前途洋々の琴風
写真:月刊相撲

順風満帆な出世街道に突如襲った悲劇

 人は、時として苦しさに耐えかねて、ここは地獄なのか、とつぶやくことがある。

 昭和52年(1977)初場所、心の壁を突き抜けた琴風は、19歳8カ月という若さで入幕を果たした。順風満帆、とはこの琴風のためにあるような言葉で、その1年後の初場所には早くも関脇に駆け上り、三賞も52年の九州、53年の夏と、半年の間に2度も受賞。若手のホープとして、いまや押しも押されもせぬ人気者になっていた。

 そして、運命の54年初場所4日目を迎えることになる。

 好事魔多し。この直前に、勝負の神は、親切にも「気をつけろ」というシグナルを琴風に送ってきていた。というのも、その前の九州場所、琴風はそれまでの背伸びをとがめられるように2日目の麒麟児戦で左ヒザの内側の側副靭帯を痛め、翌日から休場する、という初めての痛手を負ってしまったのである。

 ここで、「よし、じっくりやろう」とひと腰入れればよかった。しかし、この場所、0勝3敗12休という成績に終わったおかげで、西の筆頭から幕尻間近の東の13枚目まで急落した琴風は、内心、焦っていた。そのために、この神のせっかくの合図を無視し、ついに無理をしてしまったのだ。

 さて、問題の初場所。初日から3連勝、と好スタートを切った琴風の4日目の相手は、腰の重い金城だった。スピードにものをいわすと、勝機は十分ある。琴風は強気だった。激しく当たって得意の左四つに組み勝ち、ここから休まず、一気に前に出るのが琴風の勝ちパターンだ。

「さあ、もうもらったぞ。これで4連勝だ」

 琴風の頭の中で、勝ち力士の四股名の上につく掲示板の明かりがパチリとついた。そして、寄って出ようとした瞬間、自分のヒザあたりから、「ブスッ」といういままで聞いたことがないような不気味な音がし、急に左の足がキューッと萎縮する感じがした。

 一体なにが起こったんだ。そのまま、その場に崩れ落ちた琴風は、なにがなんだから、わけがわかならかった。ただ、いままで体験したことがない大変なことが起こったのは確かだった。

 歯を食いしばって立ち上がって土俵下に降り、そこから大嶽親方(元前頭2若ノ海)に背負われて花道を下がる琴風は、痛みよりも不安で脇汗がにじんできた。

 フイに、もう二度と相撲は取れないかもしれない、という思いが胸いっぱいに広がった。

「左ヒザの内側側副靭帯断裂」

 これがかつぎ込まれた相撲診療所の下した診断だった。気負い込み過ぎて前の場所に痛めた靭帯が切れてしまったのだ。

 数日後、琴風は豊橋市の「塩之谷整形外科医院」のベッドの上にいた。このまま、東京にいても気持ちが焦るだけだ。入院するなら、いっそ、遠くの方がいい、という師匠の佐渡ケ嶽親方(元横綱琴櫻)の判断で、左足をギブスでしっかり固定したまま、はるばるとここに移送されていたのだ。

 琴風は、ここに2カ月間いた。のちに振り返っても、このベッド暮らしのことは、ただ「辛かった」と言うだけで、具体的なことはほとんど覚えていないという。おそらく再起できるかどうかの崖っぷちに立たされて、放心状態だったのに違いない。

 唯一覚えているのは、わざわざ見舞いにやって来た佐渡ケ嶽親方が、

「ケガをして、だめになったヤツはこれまで掃いて捨てるほどいる。ここからどう立ち直るか、お前の腕の見せどころだぞ」

 と帰り際に残していった言葉だけだった。本当にオレは再起できるのだろうか。それからの琴風は頭の中でそればっかり反すうしていた。

画像: 左ヒザの靭帯を断裂し、幕下まで陥落したが再起を懸け、巡業で稽古に励む

左ヒザの靭帯を断裂し、幕下まで陥落したが再起を懸け、巡業で稽古に励む

〝ケガの功名〞で生まれた必殺技

 やっと琴風が歩行訓練を終えて、帰京したとき、もう東京は甘い春風が吹いていた。しかし、自分の体を支えるのが精いっぱいの琴風が土俵に復帰するには、もう1場所待たなければいけなかった。

 この間に「古傷を痛めただけ」と公傷制を適用されなかった琴風の番付はドンドン下がり続けた。幕内どころから、十両も滑り落ち、7月の名古屋場所、半年ぶりに再び土俵に上がったときの地位はなんと幕下の西30枚目。肩で風切る若手のホープが〝月給なしの黒廻し〞になっていた。

 体力の衰えよりも、

「いまさらいい年齢をして、恥ずかしい」

 という感情が、琴風のような土俵上のアクシデントや、病気で急降下した大物や有望力士の再起を防げる一番の障害だそうだ。

 琴風に幸いしたのは、まだ22歳という若さだった。周囲を見渡すと、まだ三段目や、幕下あたりに、同期生や、年齢の近い力士がゴロゴロしている。いまからでもやり直しは、十分きく。もともと純真で、明るい性格だけに、

「こうやって、再び土俵に上がれるだけでも、ありがたいことじゃないか」

 と、この再スタートに際しての琴風の頭の切り替えは早かった。

 気持ちさえ前向きだと、もう再起は半分成ったようなものだった。と同時に、琴風は、この再浮上の途中に素晴らしい武器を入手するのに成功していた。その大きな体を生かして、いつの間にか、相手の腰を浮かしてしまう独特の〝ガブリ寄り〞である。(続く)

PROFILE
琴風豪規◎本名・中山浩一。昭和32年(1957)4月26日生まれ。三重県津市出身。佐渡ケ嶽部屋。184㎝173㎏。昭和46年名古屋場所初土俵、50年九州場所新十両、52年初場所新入幕。54年初場所で左ヒザ靭帯を断裂、幕下まで番付を下げるが不屈の努力で幕内復帰。56年秋場所、初優勝を遂げ、場所後に大関昇進。幕内通算49場所、395勝249敗80休。優勝2回、殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞1回。60九州場所限りで引退。62年3月に分家独立し、尾車部屋を創設、関脇豪風、嘉風らを育てる。

This article is a sponsored article by
''.