果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

※努力と精進の結果、大関の栄位を勝ち取った〝根性男〞北葉山
写真:月刊相撲

角界に恋い焦がれた北海道の青年時代

 はるか海峡の向こうが明るく輝いている。千切れ雲と、陽が西に傾いたせいだが、小脇に風呂敷包みを抱えた18歳の少年の目には、そうは映らなかった。

 あの明るい陽の下に、東京がある。

「こっちに来い。きっといいことがあるから、と天まで、オレに手招きしているようじゃないか。待ってろよ。いま、行くから」

 少年はこの練りに練った〝脱出〞に一段と意を強くし、この3年間の苦労を物語る節くれだった手をギュッと握り締めた。

 力士になりたい。それもあの69連勝した横綱の双葉山の弟子に。北葉山の心にこんな希望が芽生え始めたのは、中学に入って間もなくのことだった。

 まだ敗戦のあとがあちこちに残る昭和20年代、他に娯楽のなかった日本人は、子どもから大人までよく相撲を取って楽しんだ。

 北葉山も、中学に入ると、すぐ相撲部に入った。体はそれほど大きくなかったが、人一倍しぶとい足腰でめきめき頭角を現し、3年のときにはキャプテンとしてチームを率い、室蘭市の大会に団体優勝している。

 中学を卒業すると、今度は宮相撲だ。20~30年前まで、秋の祭りの季節になると、どこのお宮でも、境内で飛び入り自由の奉納相撲大会が開かれた。上位入賞すると、賞品も悪くない。

 卒業と同時に、鍛冶屋にデッチ奉公に出された北葉山は、

「今日は、あそこのお宮で相撲をやるぞ」

 と聞くと、もう朝からじっとしていられず、親方の目を盗んでは、にぎやかな笛の音を頼りに人だかりのしている相撲場目がけて駆け出したものだった。

 そのころ、室蘭で一番の人気力士というと、なんといっても入門するまでここの港で荷揚げ労働者として働いていた若乃花(第45代横綱)である。

 この若乃花は10人兄弟の長男で、そのすぐ下の弟の勝昭さんが北葉山の相撲の師匠で、かつ兄弟子だった。

「若乃花兄弟は、みんな相撲を取ったんですよ。オレは二子山(元横綱初代若乃花)さんとも、藤島親方(末弟、元大関貴ノ花)とも取ったことがあるけど、あの兄弟に共通しているのは、みんなコイル式のバネみたいにどこからぶつかってもピーンと跳ね返す、すごい足腰をしているということですね。勝昭さんも、ほれぼれするようないい足腰をしていましたよ」

 当然のことながら、この勝昭さんを通じて、若乃花のいる大相撲の世界のことがいろいろと耳に入ってくる。なにも大相撲の予備知識のない北葉山にとって、そのひとこと、ひとことが、まるでバラ色の世界の出来事のようだった。

「ああ、オレも、ここで一生、鍛冶屋で終わるのはイヤだ。どこまでやれるか、若乃花のような本物の力士になって、試してみたい」

 朝から晩まで、玄翁(げんのう、大型のかなづち)を振り回し、親方の向こう槌を務めている北葉山の胸に、いつしかこんな熱い思いが芽生えるのに、そんなに時間はかからなかった。

画像: 角界に恋い焦がれた北海道の青年時代

北葉山が恋い焦がれた元双葉山の時津風親方

双葉山のもとへ、3年がかりの入門計画

 ただし、北葉山は小さいときから、69連勝の双葉山の大ファンだった。弟子入り先は、何がなんでも、郷土のヒーローの若乃花ではなく、双葉山でなくてはいけない。

 この熱病のような夢を現実のものとするには、どうしたらいいのか。双葉山が師匠をしている時津風部屋へのルートは、すぐ見つかった。この部屋に、同じ室蘭から双ツ龍(元前頭1、当時粂川親方)が入門しているのがわかったからだ。この双ツ龍に泣きつけば、なんとかなりそうだった。

 となると、残る問題は、上京する方法である。北葉山は長男なので、自分勝手な行動はできないし、こんなデッチ暮らしでは、おいそれと東京までの汽車賃も手に入らない。

 そこで、北葉山は、ひそかに3年がかりの〝入門計画〞を立てた。

「どうして3年にこだわったかというと、その時分には、弟も中学を卒業してなんとか働くようになっているので、長男のオレの責任は、軽くなる。それに、そのくらい経つと、なんとか上京する旅費も貯まるのでは、と思ったんですよ」

 小さいときから社会の荒波にもまれてきただけに、北葉山の世の中を見る目は、実際の年齢のそれよりもずっとしたたかだった。

 デッチ奉公というのは、最初は食わせてもらうだけの無給である。

 2年経ち、北葉山は、

「お前は骨惜しみもしないで、よく働くから」

 と、親方から特別に一人前として認めてもらうようになったが、それでも3年目の給料が日給で100円だった。これではなかなか旅費までは貯めようがない。

 ところが、2年目に、北葉山はひょんなことから〝大金〞を入手することに成功した。親方と山形県のダムにかかる鉄橋の工事に出張し、このときにもらった出張手当がそっくり、北葉山の貴重なヘソクリになったのである。

 あとは、いつ入門するか、上京するタイミングを待つだけ。そして、ついにその日がやってきた。

「ちょうど3月の日曜日の朝だったなあ。おふくろの方の伯父さんと友達の2人にだけ、いまから東京に行って相撲取りになる、ということを打ち明け、そっと家を出たんです。両親に言うと、反対されるのはわかっていたので、いわゆる家出ですよ。その友達には、(午後)3時までは誰にも言わないでくれ、それが過ぎたら言ってもいいから、と言い置いてね。その時間には、もう追っ手の届かない青函連絡船に乗っているはずだったんだ。
 昼飯の弁当は、その友達のおふくろに作ってもらいました。あの弁当の味は、いまでも忘れられないな。でも、そんなに悲壮感はなかったね。好きな道だったし、25(歳)の朝飯前まで一生懸命やれば、なんとかなる。だめだったら、また、室蘭に帰って鍛冶屋をやればいいや、と腹をくくっていましたから」

 と、北葉山はこの大志を抱いて故郷をあとにした日のことを、まるで昨日のことのように話した。昭和29年(1954)の早春のことだった。

 予定どおり、午後3時に函館に着いて、青森行きの連絡船に乗船。

「これでもう、家に連れ戻される心配はなくなった」

 とホッとした途端、北葉山は、身震いが起こって、しばらく抑えることができなかった。胸の奥で、乗るか反るかの大勝負の軍配が返ったのを感じ取ったからだった。(続く)

PROFILE
北葉山英俊◎本名・山田英俊。昭和10年(1935)5月17日生まれ。北海道室蘭市出身。時津風部屋。173㎝119㎏。昭和29年夏場所初土俵、33年春場所新十両、同年九州場所新入幕。36年夏場所後に大関昇進。38年名古屋場所、悲願の初優勝。幕内通算46場所、396勝273敗21休。優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回。41年夏場所限りで引退。年寄枝川として、平成12年(2000)5月に停年を迎えるまで時津風部屋で指導にあたった。22年7月20日死去、享年75歳。

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