デスマッチというジャンルの現在

 LEDの普及により蛍光灯の淘汰が進んでいる。

 そんな世相に抗うように、プロレス界ではいまも蛍光灯で殴り殴られ時には自らの頭をブチ抜き、そのたび猛烈な爆音をとどろかせ白い破片がライトに照らされ美しく舞う「蛍光灯デスマッチ」が、もう20年以上もおこなわれてきた。プロレスファンの方にも「いったい、何の話だ?」と思われるかもしれないが、世間一般の常識を超越したところで人心を揺さぶる蛍光灯デスマッチが、脈々と継続しているのは紛れもない事実なのだ。

 流血を伴うデスマッチながら、日本のプロレス界ではいまもポピュラーなジャンルとして根強く生き続けている。現在、デスマッチをメインに置く団体は大日本、FREEDOMSの2団体。大日本は2015年から毎年1回、両国国技館で大会を開催するまでに成長。FREEDOMSも後楽園ホールで定期的に大会を実施し“デスマッチのカリスマ”葛西純を擁する。

 歴史を紐解けば、デスマッチをメジャーにしたのは1989年にFMWを設立した大仁田厚さんの功績が大きい。90年代、“涙のカリスマ”と呼ばれ電流爆破デスマッチを代名詞に、大流血を厭わぬ死闘の数々で川崎球場を満員にするなど、体を張って血塗られたリングをメジャー感あるジャンルに押し上げた。

画像: 時には自虐的に自らの頭も蛍光灯でぶった斬るイサミ(右)と竹田

時には自虐的に自らの頭も蛍光灯でぶった斬るイサミ(右)と竹田

“デスマッチ2冠”竹田誠志が現デスマッチをけん引

 大日本はデスマッチの後発団体で1995年に、いまなお76歳でバリバリの現役レスラーであるグレート小鹿が設立。いまでこそ、関本大介を中心に“通常のプロレス”でも魅せられる団体になった大日本だが、設立してしばらくはデスマッチが生命線となっていた。そのなかで、1997年に初めて蛍光灯を使ったデスマッチが松永光弘さんによって考案され、進化を遂げてきたのである。

 いま、長きにわたる歴史あるデスマッチの世界をけん引しているのが、今年5月に大日本のBJW認定デスマッチヘビーに加え、FREEDOMSのKFCシングル王座も獲得し“デスマッチ2冠”となった竹田誠志。大日本のベルトはこれまで6度の防衛に成功しており、明日に迫った6・20後楽園で、アブドーラ・小林の持つ同王座連続防衛記録V7を懸け、DDTグループの団体・BASARAの代表でもある木髙イサミの挑戦を受ける。

 最後の前哨戦が先週、6・13新木場で“3K6人タッグデスマッチ”(蛍光灯、剣山、蛍光灯ラダーを使用)でおこなわれたが、互いに剣山を額に刺し合って頭突きをブチ込み合うなど極上の狂気を発揮。竹田は高さ4メートルはあるラダー上からブレーンバスターで投げれば、イサミもラダー自体を王者の上に乗せて、自らはイスを手にヒザに添え、そのままダイビング・ダブルニードロップをブチ込むなど、一進一退。

 デスマッチはどうしても凶器に目を奪われがちになるが、竹田はもともと総合格闘技出身で、イサミはいまやデスマッチ以外の活躍が目立っている。血みどろのなかで繰り広げられるレスリングの攻防も目を見張るものがあった。この日は、ここ数カ月で2度に渡り、イサミにタッグで黒星を付けられていた竹田がリベンジを果たし、決戦へと向かうことになった。

画像: 額に剣山をそれぞれ刺して頭突きを打ち合う

額に剣山をそれぞれ刺して頭突きを打ち合う

イサミが竹田に、竹田がイサミに抱くジェラシー

 2人には歴史がある。9年前の2009年、両者はタッグパートナーだった。同年5月、大日本の「最侠タッグリーグ戦」を若き2人は“プロレスの聖地”後楽園ホールで優勝し、BJW認定タッグも同時に戴冠。イサミが週刊プロレス本誌先週号のインタビューで語ったところによれば、その頃は試合後、一緒におしぼりを血で真っ赤に染めながら、飲み歩いた仲だった。

 デスマッチの世界で成り上がろうともがいていた当時の2人はプライベートでも仲が良かったものの、時は流れ現在は疎遠となり、一緒に飲むことも練習することもなくなった。別に嫌い合っているわけではなく、それが自然な流れだった。

 デスマッチの世界で先に結果を出したのは先輩となるイサミ。竹田は“デスマッチの申し子”と言われながら、大日本の至宝を初戴冠したのは昨年8月で、血のリングに飛び込んでから9年の歳月を要した“遅れてきた大本命”であった。イサミは盟友・宮本裕向とともに「ヤンキー二丁拳銃」というタッグも組んでいるが、彼らに散々負け続け、苦杯をなめさせられた男が竹田である。

 二丁拳銃はタッグのベルトはもちろん、それぞれが各団体でシングル王座も獲得し、どんどん実績を積み上げていった。当然、竹田のイサミや宮本に対するジェラシーは甚大なものがあり、本人は幾度もそれを口にしてきた。

 しかし、最後の前哨戦を終えたイサミが、意外にも“竹田へのジェラシー”を口にする。

「昔はね、タッグのベルト持ったりして、一緒に飲み歩いたりなんかして“俺の自慢の後輩なんすよー”みたいなこと言ってね。でも、心のなかで沸々とするものがあった。やっぱり俺はどうしても『竹田&イサミ』のタッグチームだと常にサポート役。3カウントを取るのは常に竹田で、デスマッチヘビーに(先に)挑戦するのも竹田だった。じゃあ、俺の存在ってなんなんだよと思った」

 そう、イサミも簡単に現在のポジションをつかめたわけではない。最侠タッグリーグを09年に竹田と制する以前、イサミはデスマッチを始めたものの、首のケガ(頸椎椎間板ヘルニア)で長期欠場に追い込まれていた。

「(このままでは)俺、意味ないじゃんと思って。デスマッチに参入した意味もなければ、大日本に出ている意味もないし、デスマッチヘビーもいけなかった。でも、そんな俺でも、大日本プロレスは、プロレス界は、DDTは、俺を待っててくれた。『オマエを待つから』って登坂(栄児=大日本社長)さんも言ってくれた、高木(三四郎=DDT社長)さんも言ってくれた。プロレス界に生かされてるんですよ。プロレス界で名前を馳せるために俺はデスマッチをしてきた」

 イサミが首のケガから復帰したのは08年5月のこと。まさに同じ08年5月にデスマッチを始めたのが竹田だった。そんな2人が翌年にクロスし、ひとつの結果を成す。その後、ずっと同じリングで闘いながら、2人の距離は次第に離れ、それぞれの道を歩むようになった。竹田が“デスマッチ・キング”に成り上がったことで、前述したように最近は通常ルールの試合で実績が目立っていたイサミの「デスマッチファイター自我」に、火がついた。

「デスマッチに生かされてると言っても過言じゃないですね。もう一度、デスマッチのために、デスマッチの頂点を倒すことによって、恩返ししたいですね。それを…僕が勝手に言いましょう、デスマッチの聖地・後楽園ホールで見せたいと思います」

 イサミは、もはや先輩や団体の代表という、あらゆるバックボーンを脱ぎ捨て、竹田を“現デスマッチ界の№1”と認識し、決戦のリングへ向かおうとしている。このカードはファンの琴線にも響きまくり、6・20後楽園のチケットは残りわずか。

「あの首狙わなかったら、デスマッチファイターじゃないよ! デスマッチファイター、プロレスラーじゃない。いまの竹田こそ、でしょう。おいしく育って、熟して、魚や肉でいったら脂の乗った最高の状態でしょう。いま食わずしていつ食う?」

 約10年間2人が抱いたジェラシーとジェラシーがプラス軸に傾き、竹田とイサミは最高の舞台と状況で雌雄を決する。大仁田さんがメジャーにしたデスマッチは、いまどこまで来ているのか? それを知る意味でも、デスマッチを見たことがある人、あった人、ない人…すべてに響かせられる闘いを見せられるのが、現在の2人。08年から続く、デスマッチファイターとして成り上がった2人の男の物語が、6・20後楽園で一つの答えを出す。

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