果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

※若浪を中心とした、昭和43年夏場所前の立浪部屋の稽古風景
写真:月刊相撲

【前回のあらすじ】入門から3年半、小兵ながら勝負強さを発揮して十両目前までコマを進めた若浪。しかし、19歳の若者は天狗になり、大事な場所で負け越してしまう。そこで、三度の飯よりも好きな酒を一時断ち幕下優勝、待望の十両昇進を決めた。

吊りの代償に大小15カ所を骨折

 果たしてこれを無鉄砲とか、怖いもの知らずということばで、あっさり片付けてしまっていいものなのか。

「ボキッ」

 と若浪の右足の脛骨が不気味な音を立てて砕けたのは、待望の十両に昇進して2場所目の昭和36年(1961)夏場所13日目の清ノ森戦のことだった。

 体が小さいと、どうしても体に無理をする。相手を抜き上げ、振り回さないと気がすまない若浪の相撲は、いつも自分の体の限界との戦いだった。小さなケガが日常茶飯事。47年に引退するとき、現役生活15年間の骨折カ所を数えてみたら、なんと15カ所もあったという。

 その中の一番ひどい骨折がこれだった。なにしろ足首の骨が粉々に砕け散っていたのだ。複雑骨折。土俵の上から病院に担ぎ込まれた若浪は、それから半年間、ベッド暮らしを強いられることになる。

 そのころは、公傷制度が確立していず、いくら土俵上のケガでも、休めばドンドン番付が下がった。力士にとっては、こんなつらいことはない。

 骨折から2場所目の同年秋場所、また幕下に転落した若浪は、とうとういても立ってもいられず、医師の反対を押し切って病院を抜け出すと、蔵前の国技館にかけつけた。

 しかし、稽古もしないで勝てるほど、この世界は甘くない。たちまち初日から3連敗。いくら頭が、

「ここで吊れ」

 と指令を出しても、肝心な体がまったくいうことを聞いてくれないのだ。

「結局、再休場ですよ。このあと転院しまして、相撲教習所の運動医学の先生をしてもらっている東大の津山直一先生にもう一度、手術してもらったんです。精神的にも、相当追い詰められていましたからね。もうイチか、バチかですよ。幸いにも、この手術が大成功。今日の自分があるのは津山先生のおかげで、今でも津山先生の方には足を向けて寝られません」

 と、玉垣親方(元若浪)は、力士生命が危機に瀕した日のことになると、ことばを詰まらせた。

画像: 昭和46年初場所12日目、陸奥嵐を高々と吊り上げる若浪。〝吊り師〞同士の二人の対戦は常に観衆を沸かせた

昭和46年初場所12日目、陸奥嵐を高々と吊り上げる若浪。〝吊り師〞同士の二人の対戦は常に観衆を沸かせた

最後まで吊れなかった相撲界の〝クジラ〞

 しかし、この病院のベッドから土俵に上がった若浪の向こうっ気の強さに、こんな条件をプラスするとこう変化する。

 若浪の現役時代のビッグヒーローは「巨人、大鵬、卵焼き」と子どもたちの三大好物のひとつにも挙げられた横綱大鵬である。

「オイ、お前、あの大鵬を吊り上げられるかい」

 あるとき、周りからこうけしかけられたことがある。大鵬の体重は最高時で153キロあった。いまではそれほど驚かないが、当時は超大型。しかも、体が非常に柔らかく、みんなが吊りを試みてはことごとく失敗していた。

 しかし、こういわれては、性格的に

「いや、とても無理ですよ」

 と引き下がれない。

「面白い。やってみようじゃないの。大鵬ばかりじゃないよ。高見山も、いつか吊ってやる」

 と若浪は思わず胸をたたいてしまったのだ。高見山は戦後初めて200キロの大台を超えた巨漢の代表だった。

 この日から、大鵬は若浪の〝宿敵〞となった、若浪は、38年秋場所の2日目を皮切りに、この大鵬と8回対戦している(このほかに、不戦勝がひとつある)。

 この8戦の成績は、大鵬の8勝。つまり、若浪は1回もこの大横綱に勝つことができなかった。しかし、一度だけ、金星を挙げるチャンスに恵まれた。42年秋場所5日目、若浪の打った捨て身の上手投げに大鵬の体が横転したのだ。

 ところが、大鵬も倒れながら下手投げを打ち返したために若浪の体も吹っ飛び、物言いがついた末に取り直しに。こうなると、一発穴狙いの若浪がつけ入るスキを見いだすのは至難のワザといっていい。取り直しの相撲は、大鵬が慎重に攻めたために若浪の完敗に終わってしまった。

「とにかく大鵬さんは、攻めがうまくて、いつも相撲の流れが吊るような相撲にならないんですよ。自分なりに、なんとか吊れるように工夫し、一度か二度、足を浮かしたことはあるんですけど、どうしても運び出すことはできないんですよ」

 と玉垣親方。昭和46年夏場所6日目、ついに大鵬が引退した。このニュースを聞いたとき、若浪は、

「海にだって、どんなにしたって釣れない魚がいるじゃないか。大鵬は、相撲界のクジラだったんだ」

 と思った。(続く)

PROFILE
若浪順◎本名・冨山順。昭和16年(1941)3月1日生まれ。茨城県坂東市出身。立浪部屋。178㎝103㎏。昭和32年春場所初土俵、36年春場所新十両、38年夏場所新入幕。43年春場所、平幕優勝。幕内通算52場所、351勝429敗。優勝1回、敢闘賞2回、技能賞2回。最高位は小結。47年春場所限りで引退。年寄大鳴戸から玉垣として、平成18年(2006)2月に停年、翌19年4月16日死去、享年66歳。

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