※初対談となった鈴木氏(左)と北島氏
写真◎小山真司/スイミング・マガジン

文・構成◎牧野 豊

  日本のスポーツ史に大きな足跡を刻み、現在も多くの人々の記憶に生き続けるふたりの五輪金メダルスイマー――鈴木大地氏(現・スポーツ庁長官)と北島康介氏(現・東京都水泳協会副会長)。両氏は学年で16年違い、それぞれ違う時代背景の中で泳ぎ続けてきたが、オリンピックを迎えた年齢や金メダルを目指すに至った過程、共に戦ったコーチと中学時代に出会うなど、共通点も多い。
実は両氏が対談するのは今回が初めてのこと。

 この対談は「スイミング・マガジン」通算500号(2018年7月号)記念企画として実現したが、明日7月24日は2020年東京オリンピック・パラリンピック開幕まであと2年の節目になることもあり、本誌で紹介しきれなかった内容を含め、完全版としてご紹介する。前編はふたりの出会い、そしてそれぞれのジュニア時代からオリンピック初出場までについて語っていただいた。

1999年ジュニア米国遠征の思い出

――お陰様でスイミング・マガジンは創刊から通算500号を迎えました。その節目の特別企画として、お二人にご登場いただきました。ありがとうございます。

鈴木 何年になりますか? 私が水泳を始めていたときにはありましたからね。

――1977年(昭和52年)創刊なので、41年目になります。

北島 生まれてないですよ(笑)、僕。

鈴木 (爆笑)

――男子では鈴木さんの次の五輪金メダリストが北島さんという縁もありますが、おふたりが最初に交流を持ったのは、北島さんが参加した1999年のジュニア米国遠征のときではないでしょうか。

鈴木  たぶん、そのときですね。当時、私は米国東海岸の大学にコーチ留学中で、西海岸のサンタクララまで行って、ジュニア代表の皆さんの御世話役をしたときです。初めて北島さんを見たときは、レースでキラッと輝くものを持っていたので、良い選手が出てきたなと。ちょうどスイマガさんにも寄稿しました。(当時の記事を見て)「圧巻だったのは北島選手の100m平泳ぎ。開口一番、『ベスト、出ますよ』。スピードに乗った泳ぎで会場の目を引いた」と書いています。

――北島さんは覚えていますか。

北島 覚えています。あの遠征は当時、ジュニア世代の選手にとっては最も大きな目標でもありましたから。そこで日の丸を背負って、皆で戦うことを覚えて強くなっていけたのは、貴重な経験でした。

鈴木 最近、優等生になってない?

北島 いやいや、普通です(笑)

鈴木 トム・ウィルキンス(2000年シドニー五輪男子個人メドレー3位、平泳ぎ代表)という米国でもトップレベルの選手がいて、その選手に勝ったんですよね。そのとき、日本からいらしていた日本水泳連盟の関係者の方が「今回来ている選手たちは絶対に強くなります」と言っていて、実際にその通りになりました。北島さんはじめ、奥村幸大さん(2004年アテネ五輪400mメドレーリレー銅メダル)、中西悠子さん(2004年アテネ五輪200mバタフライ銅メダル)、寺川綾さん(2012年ロンドン五輪100m背泳ぎ銅メダル)など、のちにオリンピックのメダリストになった選手たちもいました。

北島 このときは楽しかったですね。選手たちの間では、大地さんが来るということで、テンションがメチャメチャ上がっていました。滞在先のホテルのロビーで緊張して待っていたんですけど、お会いした瞬間、大地さんのほうから気さくに声をかけていただき、すぐに打ち解けたのが印象に残っています。当時は高校生だったので合宿や大会出場の合間にテーマパークに連れていっていただいたり、練習はつらいけど頑張れる遠征でした。

鈴木 今考えると、良い役をやらせていただきました。一番の仕事は食事の場所を探すことで、東海岸に住んでいたのに、さもサンタクララに住んでいるかのようなふりをして、食事の場所など現地の方に聞いて手配していました。それで、あまり味がよろしくない食事に連れていってしまったこともあって、申し訳なかったな、と(笑)。

北島 人数も大勢いたので大変だったと思います。でも、味がよろしくないお店の記憶はないです。

鈴木 言わなければよかった(笑)。でも、この遠征の翌年には北島さんがオリンピックに出たのをはじめ、1982年生まれの選手が順調に育っていったと思います。

北島 82年組は多かったですね。今の萩野世代みたいに。先ほどあがった選手のほかにも、三木二郎や山田沙知子もオリンピックに行っています。

それぞれのジュニア時代

――さて、おふたりの現役時代について、紹介していただければと思います。まずは、それぞれのジュニア時代から振り返っていただけますか。

鈴木 私は、あまり大きな声で言えませんが……たまに息を抜きながら取り組んでいたので、よく怒られていました(笑)。 今のように、日本代表になったら世界でも戦える時代ではなく、人生のすべてを水泳に賭けようと思える時代ではなかったので、選手として大成できるかわからないけど、とにかく頑張っている、みたいな感じでした。

北島 鈴木陽二先生(鈴木氏の中学時代から指導していたコーチ)は当時、怖かったのですか。

鈴木 怖かったですよ、練習もきつかったです。陽二先生が不在のときも、アシスタントの方が厳しくて。ただ、僕の中で反抗心みたいなものもあって、あまりに厳しくされるときは、頑張らなかったです。頑張ってタイムが出てしまうと、もっと厳しくされると思ったので。ただ、厳しいですけど一生懸命指導していただきましたし、スイミングクラブで上下関係なども学ぶことができました。

――北島さんはいかがですか。

北島 僕は自分より強い選手が同級生にいて、中学2年くらいまでは「この選手に一生、勝てないんじゃないか」と思いながら、取り組んでいました。その割に練習がきついから嫌で、自分も当時は真面目に取り組んでいるほうではなかったと思います。ただ、オリンピックといえば水泳を見ていましたし、中2の冬から平井伯昌先生に指導を受けるようになって、その後、少しずつ結果も出てきて、水泳に集中する生活に変わっていきました。

――オリンピックが夢ではなく目標になったのは、いつごろですか。

鈴木  私は高校2年の夏が終わったあとです。ちょうど高3のシーズンの目標について陽二先生と話し合いをしたときに「インターハイで優勝すること」と答えたら、陽二先生から「もう少し頑張れば、オリンピックに行けるかもしれないよ」と言われて、高3で行けるなら頑張ってみようと思って狙い始めました。

北島  僕は、高1の夏ですね。インターハイで優勝して、オリンピックがちらついてきました。

鈴木 高1で優勝しているの? すごい。

北島 その年(1998年)は日本ランキングも上位に入れたので(100m3位、200m2位)、平井先生のオリンピック欲がガッと強くなって、そこからメチャメチャ練習がきつくなりました。年末年始も31日にメイン練習をやって、1月1日も3回練習していました。

鈴木 正月、なかったの!? それはつらいっ!

北島 なかったです、本当に。

鈴木 陽二先生は、31日から年明け3日まで休みでした。

北島 それ、いいですね。

鈴木 でも、正月気分に気持ちが負けてしまって、1月4日に練習に行くのがつらかった(笑)。

北島  コーチの性格や私生活によっても違いますよね。平井先生は、今以上にすべての時間を水泳に注いでいたので、クリスマスとか年末年始とか、全く関係ありませんでした。今だから言えますけど、当時はまだ結婚されていなかったので、冗談交じりに、“早く結婚しないかな”と思ったりもしていました(笑)。それくらい、本当にきつかったんですよ。

鈴木  平井先生はさらに東京出身なので、帰省もない(笑)。

北島  だから、今のほうが、休みが多いはずです。

1回目のオリンピック

――おふたりとも高校3年のときにオリンピックに初出場していますが、初めて出場が決まったときの気持ちは、どのようなものでしたか。

鈴木  水泳人生の中で、一番うれしかったですね。やはりオリンピック選手になることは特別な出来事ですから。当時は日本選手権とは別に6月に代表選考会が行なわれていた時代で、優勝してもその場で代表内定が決まるわけではなかった。1、2日後に直接通達されるまではわからなかったので、その間が何とも言えませんでした。

画像: 鈴木氏のオリンピック初出場は1984年ロサンゼルス五輪。そして帰国後に行なわれたインターハイで初めて優勝を飾った 写真◎スイミング・マガジン

鈴木氏のオリンピック初出場は1984年ロサンゼルス五輪。そして帰国後に行なわれたインターハイで初めて優勝を飾った
写真◎スイミング・マガジン

北島  僕は、4月の日本選手権で、当時の第一人者だった林享さんに勝って出場を決めたことに感動しました。現役時代の印象に残るレースのベスト3に入ります。まだ、オリンピックで勝負するというより、行くことが何よりの目標だったので、出られることの喜びが強かったです。

画像: 高1でインターハイ制覇を果たし、オリンピックが現実的な目標になったという北島氏。初出場となったシドニー五輪は100m平泳ぎで4位入賞を果たした 写真◎日本雑誌協会

高1でインターハイ制覇を果たし、オリンピックが現実的な目標になったという北島氏。初出場となったシドニー五輪は100m平泳ぎで4位入賞を果たした
写真◎日本雑誌協会

――オリンピックの舞台はどのようなものでしたか。

鈴木  1回目のときは期待されていませんでしたけど、私自身が日本を代表する水泳選手としての重圧を感じて、ずっと下痢の症状が出ていました。当時、普段でも体重が59kgしかなかったのに、1週間で55kgまで減りました。食欲もなく、フルーツとジュースだけしか摂れないくらいでした。ただ、そういう状態でも100、200m背泳ぎ、400mメドレーリレーと計6本レース泳ぐことができ、最後のほうは自分の泳ぎができました。なので、1回目のオリンピックは2回目のオリンピックへの練習のような場になったと思います。

北島  1回目は戦えると思ってはいなかったとはいえ、やはり大会本番では緊張して、手が震えてキャップをうまくかぶれなかったり、何といっても1万人以上の観衆の前で泳ぐことが初めてだったので、オリンピックのすごさに圧倒されました。そこで100m平泳ぎで4位だったからこそ、次はメダル、優勝したいという気持ちが芽生えました。

(後編に続く)

●Profile
すずき・だいち◎1967年3月10日生まれ、千葉県習志野市出身。市立船橋高―順天堂大―順天堂大大学院。専門種目は背泳ぎ。7歳のときに水泳を始め、中学時代からセントラルスポーツクラブへ。全国トップクラスの選手として活躍し、高校3年時に1984年ロサンゼルス五輪に出場する(100m11位、200m16位)。1986年ソウル・アジア大会では100m、翌87年のザグレブ・ユニバーシアード大会では100、200mで優勝を果たし、世界的なスイマーへと成長を遂げる。迎えた88年ソウル五輪100mでは日本人選手として16年ぶりに競泳のオリンピック金メダルを獲得し、一躍国民的ヒーローとなる。92年に引退。その後、1994年からは米国のコロラド大ボールダー校の客員研究員、98年からは日本オリンピック委員会の在外研修として、ハーバード大水泳部のゲストコーチを務めるなど、米国で見識を広め、2000年からは母校・順天堂大の水泳部監督を務め、06年から同大准教授に。その後、多くの要職を務め、2013年には教授となると同時に、日本水泳連盟会長にも就任。2015年10月からは新設されたスポーツ庁の初代長官となり、現在2期目となる。また、2016年10月にはアジア水連副会長、2017年7月には国際水連理事に選任された。

きたじま・こうすけ◎1982年9月22日生まれ、東京都荒川区出身。本郷高―日本体育大―日本コカ・コーラ。専門種目は平泳ぎ。5歳から東京スイミングセンターで水泳を始め、ジュニア時代から全国大会で活躍。高校3年時に2000年シドニー五輪でオリンピック初出場(100m4位)。2002年釜山アジア大会200mで自身初の世界新記録を樹立すると、翌03年バルセロナ世界選手権では100、200mともに世界新記録で優勝を果たす。そして2004年アテネ五輪では平泳ぎ2種目において金メダリストに。続く2008年北京五輪では平泳ぎ2冠(100mは世界新)五輪連覇を達成した。1年の休養を経て09年6月から米国を拠点に競技を再開し、その後も国際大会で活躍。2012年ロンドン五輪に出場し、個人種目では100m5位、200m4位に終わったが、400mメドレーリレーで銀メダルを獲得した。2016年4月の日本選手権を最後に現役引退。4回のオリンピックでの通算メダル獲得数は金4、銀1、銅2の7個。現在、2009年に設立した(株)IMPRINT代表取締役社長、東京都水泳協会副会長を務めるなど、多忙な日々を送っている。

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