※2017年第48回全国高校定時制通信制柔道大会で10連覇を達成した兵庫県・飾磨工業高校
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学業と仕事を両立させ、柔道に励む定時制・通信制の全国大会が今年も8月5日に講道館で開かれる。全国高校定時制通信制柔道大会。その中で異彩を放つ存在が2017年の第48回大会で男子団体で10連覇の金字塔を打ち立てた兵庫県・飾磨工業高校の三輪光監督と、58歳にして大会出場を果たした上原裕二2段。二人の戦いを追った。

文◎中 大輔

第1回

一台のタクシー

一台のタクシーが東京・白山通りを流していた。東京ドームを左手に見ながら巣鴨方面へ進んでいたが、講道館の前で路肩へ寄った。手を挙げている客は見当たらない。しばらく停車していたタクシーはその後、誰も客を乗せることなく、駐車場に入っていった。

タクシーから降りてきた運転手は、額の汗を手の甲で拭いながら、講道館のエレベーターに乗り込んだ。8階で降りると観客席にどっかと座り、7階の大道場を見下ろした。

2013年(平成25年度)8月4日。第44回全国高等学校定時制通信制柔道大会。この日、宮崎県立富島高校の女子選手が個人戦に出場することになっていた。

柔道経験者の運転手は、母校の孫の歳に近い後輩選手を応援するため、仕事をさぼって講道館にやってきたのだった。

上原裕二は、1959年4月9日、宮崎県日向市に生まれた。海と山に囲まれた漁師町で育った。

「漁港が5つか6つある漁師町で、大人たちがみんな血が荒かったんですよ。酔ったら暴れてね。喧嘩ばっかり。ステゴロじゃなくて、銛が出てくることもありましたよ」

地元の富島中学に入学すると、友人の誘いで柔道部に入部した。腕白で腕に覚えのあった上原少年だったが、自分よりも体の小さい二年生に、あっさり背負いで投げられた。

「びっくりした。自分より小さいのに、全然敵わないんだから」

負けず嫌いの少年は夢中になって稽古した。やがて強豪・宮崎商業高校の柔道部監督からスカウトされるほどまで上達した。しかし、監督宅に下宿することが条件だといわれ、せっかくの誘いを断った。

改めて、延岡商業高校柔道部に入った1974年当時、ブルース・リーが一大ブームを巻き起こしていた。

「柔道やめて、空手やろうかなぁ」

なにげない呟きが上級生たちの逆鱗に触れた。三年生に呼び出され、髪の毛を掴まれ、引きずり回された。泣いて謝ったが、許してくれなかった。入学したての一年生は、複数の三年生たちの前では無力だった。

「まるで大人と子供ですよ。恐ろしかったなぁ。ブルってねぇ。学校、行きたくなかったですよ、憂鬱だもん」

連日のいじめに耐えられず、高校を半年で退学した。気落ちした上原少年は空手をやることもなかった。気が付けば、ただ、高校中退という事実だけが残った。

退学後、二年ほどはアルバイトをしながら燻ぶった。

「自宅警備隊ってやつです。でも、やっぱり高校くらいは出ておかないとダメだろうと思い直して」

18歳で宮崎県立富島高校の定時制に入学した。

「おまえ、柔道やってたんだろ。枠があるから出ろ」

教師に言われるがまま、入学初年で定時制通信制大会の県予選に出場した。

「練習なんかしなかったですよ。所詮、定時制なんだからと思って」

個人戦一回戦の相手は、宮崎県立都城泉ヶ丘高校。

「そんなに体も大きくない相手だったんですよ。だからナメてました。絞められて、あっさり負けましたね。強かったんですよ、びっくりした。頭に来ちゃってね。悔しかったなぁ」

定時制通信制大会をナメちゃいけない。次やったときは、今度は自分が絞め落としてやる――。生来の負けず嫌いと闘争本能に火が付いた上原は、真面目に稽古をし始めた。

「当時の定時制のやつは、みんなリーゼントでしたから。俺もリーゼントで決めてましたよ」

やんちゃもしたが、稽古もしっかりやった。電柱や大木を相手に打ち込みをし、稽古相手を求めて全日制、町道場へ出稽古を繰り返した。

県大会。上原は二年前に自分を絞め落とした相手をぶん投げた。その後も上原は勝ち進み、全国大会の四回戦に臨んだ。113kgの相手に73kgで立ち向かったが、組んだ瞬間に足払いを食らい、そのまま抑え込まれた。歯が立たなかった。

大江学。この当時、定時制通信制大会で部類の強さを発揮して個人戦を三連覇した強者だった。

「全日制と比べれば、やっぱり参加人数は少なかった。今と同じでね。でも、少ないながらも全日の全国でも通用する強いのはいましたよ。大江なんてほんとに強かった。団体は天理がいる奈良県が強かったなぁ」

昼はメーカーの営業職に就き、陽が沈んでから授業と柔道の稽古をこなすと、あっという間に一日が終わった。充実した学生生活を謳歌して上原は高校を卒業した。

「高校卒業後は……喧嘩もしたし、荒れた生活を送っていましてね。地元でいざこざがあって、嫁と一緒に逃げるようにして宮崎を出たんですよ」

上原は苦笑いして、20代30代の日々を端折った。

「いろんな仕事に就きましたよ。新聞の勧誘なんかもやったなぁ。しょっちゅう職場に警察が踏み込んできましたね。指名手配犯が働いていたりしていましたから」

職を転々とし、46歳でタクシー運転手になった。

場面は冒頭に戻る。2013年(平成25年度)8月4日。第44回全国高等学校定時制通信制柔道大会。

「今の定通の柔道はどうなってるんだろうと思いましてね。タクシーの仕事さぼって、講道館に観にいったんですよ」

上原の母校・富島高校の女子選手が出場する個人戦は午後。午前中は団体戦が行われていた。上原は8階の観客席から、7階の大道場で行われる男子団体決勝を覗き込んでいた。

「なんだあいつら!?」

上原は思わず呟いた。

五厘に剃り上げた選手たちが畳の上で仁王立ちしていた。観客席から大声で応援しているリザーブ、二年生、一年生たちもまた、揃いも揃って五厘だ。かつてリーゼント姿で柔道をしていた上原は「全日よりも緩いはず」の定時制通信制大会に、気合の五厘姿を見て少なからずショックを受けた。

「しょくこう? なんて読むんだ?」

兵庫県立飾磨工業高校。通称:飾工(しかこう)。上原が読めなかった飾工は、決勝戦を4-1で圧勝。前人未到の男子団体六連覇、女子団体三連覇を成し遂げた。

午後から行われた女子個人戦。上原の後輩にあたる富島高校の松葉祥子選手は65kg超級で3位と健闘した。後輩の頑張りに拍手を送りながらも、上原の心に棘のように刺さっていたのは、団体のアベック優勝に加え、個人戦でも6階級(男子3階級、女子3階級)の内、3階級を制した飾工のことだった。

「しょくこう……なんだあれは……」

全国大会を“占拠”した飾工の圧倒的な強さに、上原は唸った。

画像: ※2017年58歳で大会出場を果たした上原裕二2段 Photo/近代柔道

※2017年58歳で大会出場を果たした上原裕二2段
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親子の進撃

2005年まで兵庫県立飾磨工業高校多部制には、柔道部がなかった。兵庫県立明石南高校から赴任してきた体育教師が部を立ち上げ、自ら監督に就いた。後年、前人未到の連覇劇を続ける飾工も、スタートは、ヘラヘラした部員三人だった。

「耳切られたいんかい!」

柔道場に響く怒鳴り声。柔道部監督・三輪光が鬼の剣幕で部員に詰め寄る。没収したピアスは、一年後には箱に山盛りになった。赴任先の飾工は当時、三輪曰く、「一歩間違えれば鑑別所行きの不良だらけ」だった。

初任校の兵庫県立相生産業高校定時制も、学校は荒れていた。

「特に相生産業高校時代の話は、私が話しても書けないことばかりですよ。現役の暴走族や元シンナー中毒者たちと毎日対峙してましたから」

牙を剥く生徒の胸倉を掴み、体育館の端から端まで引きずり回したこともあった。大勢の不良たちを前に、服を脱いで上半身裸になり、「かかってこんかい!」と仁王立ちしたこともあった。

三輪は彼らと真正面から向き合い、時にはライオンの雄同士のように対峙し、時には父と子のように絆を深め、卒業と更生の道を作り続けてきた。そして2006年から赴任することになった飾工でもまた、柔道版“スクールウォーズ”の日々が始まったのだ。

三輪は国際武道大学柔道部在籍時、当時の特別師範であった松本安市の薫陶を受けた。木村政彦に腕を折られながらも死闘を演じ、現役引退後は指導者として天理大学を日本一に、アントン・ヘーシンクを世界一へ導いた、あの松本安市である。

柔道部の主務(マネージャー)を務め、プレイングマネージャーとして奮闘していた三輪を、松本はことさらにかわいがった。

大学四年時の春。三輪は交通事故を起こしてしまう。闇の中、突如として浮かび上がった人影を避け切れなかった、不運な事故だった。絶望感にうちひしがれ、抜け殻のようになっていた三輪を救ったのが松本だった。教え子のために東奔西走し、未来ある若者のために力を尽くした。自滅しかねないほど落ち込んでいた教え子を、どん底から救い上げた恩師。三輪は人生のターニングポイントともいえる、この大きな出来事をきっかけに、松本の大きな大きな背中を追いかけるようになった。自分が救い上げてもらったように、いつか自分も路頭に迷う人々を救い上げ、光射す方向へ導きたい――。

やがて三輪は教師になり、赴任する先々で柔道部監督として、子供たちを導く人生を選んだ。

三輪は生徒という言葉を使わない。「子供」と呼ぶ。

「教育じゃなくて、子育てだと思ってますから。私には二人の娘がいますが、彼女たちを含めて、教え子たちは全員私の子供。教師という職業は究極の子沢山ですから」

教師として授業を滞りなく行う。部活動の顧問として責任を負う。その他の役職や学校行事の担当に応じた働きをする。三輪はこうした教師としての通常の仕事に加え、子供たちの放課後以降にも目を配る。低所得家庭の子供にポケットマネーでご飯を食べさせ、家出した子供を一晩中探し、保護者達と膝を突き合わせて話し込む。生徒ではなく、子供。教育ではなく、子育てなのだ。

部員三人から始まった柔道部は翌2007年、全国高等学校定時制通信制柔道大会・男子団体で準決勝へ進み、敗れた。普段突っ張っている子供たちが悔し涙に暮れた。自分たちは強いと粋がっている子供たちが、正々堂々たる力と力の戦いに敗れ、男泣きに泣いたのだ。

「てっぺんにしか見えない景色がある。みんなでそれを見に行こう」

真っ赤な目でそう呟いた三輪の言葉に、子供たちは無言で頷いた。以来、一年365日、一日も練習を休まない猛稽古に突入した。三輪は容赦なくしごき、子供たちは歯を食いしばって、来るべき八月を目指した。

翌2008年8月。全国大会男子団体、初優勝。子供たちは一年前に流した涙を無駄にしなかった。

しかし勝利の余韻は間もなく消えた。不幸な事故により、一人の部員の命が失われた。柔道部はより一層絆を深め、天国に連覇を誓い、そして翌年にこれを成し遂げた。常勝軍団の誕生だった。

飾工はその後も勝ちまくった。三連覇、四連覇、五連覇。3人で始まった柔道部は50人を超えた。

そして前人未到の男子団体六連覇、女子団体三連覇。飾工の快進撃はマスコミの目に留まるようになった。テレビ東京系バラエティ『ありえへん∞世界』をはじめ、ドキュメンタリー番組等も複数放映されるなど、飾工は定時制通信制の柔道界において、絶対的な王として永く君臨することになった。

テレビで取り上げられ、男子団体六連覇と女子団体三連覇の完璧なアベック優勝劇を果たした後、三輪はしばらくの間、放心状態に見舞われた。

「ほっとした部分があったし、達成感もありました。柔道部の監督として、十分に結果は残せたんじゃないかと」

三輪はさすがに疲れていた。手のかかる子供ほどかわいいというが、三輪の全力の子育ては、相生産業高校定時制の頃から数えれば、三十年近くに及んでいた。

「それにメンバーを見渡して、来年、再来年は戦力が落ちることはわかっていました。さすがに七連覇、八連覇は厳しいだろう、と」

もう一年、また子供たちと共に苦しまなくてはならない。一年先は遠い。険しければ険しいほど、苦しければ苦しいほど遠い。大仕事を終えてなお、茨の道に身を投じるには勇気が要った。やるからには勝たなくてはならない、連覇を続けなくてはならない、昨年よりも劣る戦力で――。周囲の期待、プレッシャー、何より生真面目な性格ゆえに、絶対に遂げるという半端ではない覚悟が三輪を苦しめた。

苦しんだ末、三輪は吹っ切れた。

「連覇が途切れても仕方がない。盛者必衰。いつかは必ず途切れる時が来る。絶対に勝つ、でなくともいい。精一杯、出来る限りのことをやろう。そう思いまして」

三輪は開き直った。

2014年8月。飾工は男子団体決勝の舞台に上っていた。相手は神奈川県立横浜修悠館高校。ここ数年、決勝で散っては飾工の連覇の引き立て役に甘んじてきた強豪だ。今年こそ! 並々ならぬ闘志は、飾工と同じく青々と光る五厘刈りに表れていた。

横浜修悠館の選手たちの気概は、七連覇を目指す絶対的王者を土俵際へ追い詰めた。勝負の行方は大将戦へ。結果、2-2の内容勝ちで、勝利の女神はかろうじて飾工に微笑んだ。のちに三輪が「生きた心地せえへんかった」と当時を振り返る薄氷の勝利だった。

(つづく)

中大輔(なか・だいすけ)
1975年岐阜県生まれ。日本大学法学部卒。雑誌記者、漫画原作、書籍構成等を経て執筆活動に。主な書籍構成に、飾磨工業高校柔道部・三輪光監督の『破天荒』(竹書房)、伝説の女傑・齋藤智恵子『浅草ロック座の母』(竹書房)。2014年『延長50回の絆~中京VS崇徳 球史に刻まれた死闘の全貌~』(竹書房)で作家デビュー。著書に『たった17人の甲子園』(竹書房)などがある。

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