果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

※誠実な土俵を務めた豊山は、四股の美しさに定評があった
写真:月刊相撲

爪に火をともすような苦学生活

 陽は大きく西に傾き、誰もいないグラウンドに樹木の寒々とした影が落ちていた。ついさっきまで、いかにもただ今青春を謳歌中と言わんばかりの屈託のない笑い声をあげていた学生たちも、今ごろは温かい夕食のにおいが立ち込めている家や、下宿に帰り着いているに違いない。

 思い出したように落ち葉を巻き上げてきた北風にあわてて首をすくめた拍子に、

「世の中、不公平にできているのはわかっていたけど、どうしてオレはいつも割の悪い方にばっかりいるんだろう」

 という腹立たしい思いとともに、この4年間、寝ても覚めても頭から離れない男の顔がまた浮かんできた。同じ年齢の日大の輪島である。

 高校を卒業するまでは、こっちの実力が上だった。なにしろ高3のときに〝高校横綱〞のビッグタイトルを取っているんだから。それが何もかもおかしくなったのは、高校の先輩、時津風親方(元大関豊山)の後を慕って、東京農大に入ってからだった。

「約束が違うじゃないですか」

 と思わず自分を誘ってくれた相撲部の部長に食ってかかった日のことを、豊山(入門時の四股名は本名の長浜。ここでは豊山に統一する)はまるで昨日のようによく覚えている。

 男ばかりの3人兄弟の長男で、ものごころつくころから、父は刈り入れがすむと毎年、新潟から東京に出稼ぎに出かける生活が続いていた。とても学資を頼めるだけの余力はない。

 進学するなら、学費免除の特待生扱いで。これが豊山が大学に入る最低の条件で、わざわざ新潟の新発田農高までスカウトに来てくれた相撲部の部長は、

「心配するな。ウチに来てくれたら、君はただ、勉強と相撲に打ち込んでくれ。学費はもちろん、小遣いも面倒見るから」

 と胸をたたき、全面的に飲んでくれたはずだった。

 ところが、入学してみると、

「ワンダーフォーゲル部が下級生のしごき事件を起こし、運動部の特待生制度は中止になりました」

 と通告され、豊山のように向学心に燃えて田舎から上京してきた貧乏学生8人は、大学当局から、

「ここなら、働きながら、勉強や生活ができるから」

 と大学の夜警の仕事を斡旋されたのだ。8人で4人ずつの2班に分かれ、一日おきに、交代で一晩中、起きて広い大学のキャンパスを見回り、警備する。確かにこれなら昼間、授業にも出られるし、夜警室に寝泊まりできるので下宿を探す必要もない。給料は1カ月7000円で、税金分を引かれた手取りが4000円。

 いやなら大学を辞める以外に選択の道のない豊山にとっては、いやも応もなかった。この6400円の中から4000円の相撲部の合宿費を支払い、残った2400円が豊山の1カ月の小遣いということになる。この中から、教科書やノート、歯ブラシなどの日用品などを買うと、もうほとんど残っていない。

画像: 日大の輪島(右)とは、学生時代から頻繁に顔を合わせた

日大の輪島(右)とは、学生時代から頻繁に顔を合わせた

負け犬のままでは終われない

 この学生と、相撲部の選手と、夜警という一人三役の生活を始めた豊山がどうしようもなくなってやむなく犠牲にしたものが二つあった。

 昼食と、睡眠時間である。相撲部の選手にとっては、食べて、体力をつけることも、稽古の一つである。しかし、昼食をとると、たちまちサイフに赤ランプが灯ってしまうのだ。

 睡眠時間は、もともと夜警の仕事と両立しにくいものだった。この豊山が在学していた昭和40年代の前半、どこの大学も学生運動が猛威をふるっていた。豊山らも、その対策の一つとして雇われたようなもので、当然のことながら夜警の仕事もハードそのもの。

「学生たちの動きに不穏な動きがある」

 という情報がもたらされると、文字どおり一睡もしないで、一晩中キャンパスを見回ることもしょっちゅうだった。

「ああ、メシを腹いっぱい食いたい。いっぺんでいいから心ゆくまで寝てみたいと、どのくらい思ったことか。特に、この食事抜きはこたえましたねえ。入学してあっという間に、それまで96キロあった体重が86キロになってしまいましたから。だから、友達にオイ、何か食わせろ、と言って、よくごちそうになりましたよ。あのときのカツ丼や、カレーライスはホントにうまかったなあ。大会のために授業に出席できないときに、ノートを見せてくれたのも友達です。もしあのとき、いい友達に恵まれていなかったら、今の自分はいなかったんじゃないですか。最近の子どもたちは友達づくりが下手ですが、私は後輩と話す機会があると、いつも、まずいい友達をつくれ、とアドバイスするんです。青春時代につくった友達は死ぬまで友達ですから」

 と、今では11人の弟子を持つ湊部屋の師匠として奮闘中の豊山は、この爪に火をともすように過ごした苦学時代を感慨深けに振り返った。

 しかし、それもこのハンデを完全に跳ね返すことはできなかった。このことは、金沢高校から日大に進んだ輪島との6勝9敗という大学4年間の対戦成績をみれば、歴然だった。タイトル獲得数も、豊山が万年2位、3位でわずか「2」だったのに対して、輪島は、ここ一番の勝負強さを発揮して昭和43年(1968)、44年と2年連続の学生横綱をはじめ「14」。

「もしオレも輪島のように、こんなつらいアルバイトをせず、好きなように食べ、好きなだけ稽古できたら、もっといい成績を残せたはずだ」

 という悔いとも、弁解ともつかないものが残滓のように心に残り、後年、豊山をずいぶん苦しめた。と同時に、

「このまま、負け犬のままで終わるのは絶対イヤだ。今に見ておれ。必ずオレも陽の当たる場所に躍り出てやるから」

 という思いもふつふつと。

 その輪島が、

「花籠に入るぞ」

 というニュースを人伝てに聞いたのは4年の秋口に入ってからだった。このライバルの決断を聞いて、豊山の心も大きく波立った。(続く)

PROFILE
豊山広光◎本名・長濱廣光。昭和22年(1947)10月22日生まれ。新潟県新発田市出身。時津風部屋。185㎝130㎏。東京農大から昭和45年春場所幕下尻付け出しで初土俵、同年秋場所新十両、46年九州場所新入幕。47年名古屋場所より師匠の四股名豊山を継承。幕内通算51場所、352勝413敗、殊勲賞1回、敢闘賞2回。56年夏場所限りで引退後、年寄湊を襲名。翌年末に独立して湊部屋を創設、幕内湊富士らを育てた。平成22年(2010)7月に名跡交換で元湊富士に部屋を譲り立田川を襲名。24年10月停年退職。

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