果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。


※昭和45年秋場所6日目の初対決で、輪島に敵対心むき出しで臨んだ豊山(当時長浜)
写真:月刊相撲

【前回のあらすじ】向学心に燃えて新潟から東京農大に進学した豊山だったが、学生と相撲部の選手と夜警という、一人三役の生活を余儀なくされた。一方、高校時代からライバル視する日大の輪島は、好きなように食べ、好きなだけ稽古することでタイトル数を増やしていた――

苦学中に身に付けた人生哲学

 いよいよあと半年でこの学生と夜警の二重生活も終わる。卒業後の豊山の選択肢は2つあった。学校の先生になるか、輪島と同じように大相撲の世界に入るか、だ。

 熱い希望に燃えている子どもたちを教えたい、というのは、4年前に新潟から上京してきたとき、豊山が抱いてきた夢の一つだった。しかし、この4年間に、このままスンナリと先生になるわけにもいかないものが芽生え、育っていったのも確かだった。

 学業を支えるためのアルバイトに時間や精力を取られ、まだ大好きな相撲がやり足りなかったのだ。

 この不満を解消し、しかも輪島に借りを返すには、プロに入るのが最も自然な選択だった。

「よし、オレも入門しよう」

 と豊山が決意したのは、輪島のプロ入り表明からそう時間は経っていなかった。すでにこの気配を察して、10本の指に余る部屋から入門の誘いが来ていたが、ここでも、豊山は先輩の率いる時津風部屋を選ぶのにそう大して時間はかからなかった。

 ただ、この名門部屋への入門を決めたとき、豊山は一つの条件をつけた。学生相撲出身者たちは、一般の新弟子と違って、誰でも入門するとき、プロ野球の契約金とは比較にならないまでも、大なり小なりの〝厚遇〞を得ている。

 しかし、豊山は、

「プロというのは、自分で汗をかいて、自分で道を開き、自分で地位を築いていくところ。入る前に、そんな代償を求めるようでは気持ちに甘えが出て、かえって失敗する」

 と、たとえ一銭のお金でも受け取ることを拒否したのだ。それはまた、一切の下積みの雑用から解放され、親方の部屋で食事をし、親方のクルマで場所入りする、という超VIP待遇を得ている輪島への対抗意識の表れでもある。

 無ほど強いものはない。これが豊山が苦学中に身に付けた〝人生哲学〞だった。

 昭和45年(1970)春場所、豊山は幕下付け出しでプロの土俵を踏んだ。輪島よりも初土俵が1場所遅れたのは、向こうが12月の全日本選手権を終えるときにさっさと入門したのに対し、こちらは、

「オレはキャプテン。その責任を途中で放り出すわけにはいかない」

 と、翌年1月の高知大会が終わるまで延ばしてもらっていたからだった。このへんにも、二人の性格の違いがよく表れている。

 ただ、過程や、内容よりも、白か、黒かの結果をなによりも優先するプロの世界では、この豊山の律儀さや、責任感は、ある意味でマイナスだった。このことを、豊山はあとで痛切に思い知らされることになる。

 つまり、ここでは土俵に上がっているときの評価がすべてで、朝から晩まで全力投球する必要はない。結果を伴わない努力は全く無意味なのだ。

 輪島はそのことを本能的に見抜き、ここ一番の勝負どころでは異常なまでの集中力を発揮したが、いったん土俵を離れると、実にドライで、要領が良く、またちゃらんぽらんだった。

 しかし、入門すると、自ら進んで中学を卒業したばかりの新弟子たちに混じってトイレの掃除から始めた豊山に、輪島の真似をしろ、というのは、およそ無理な要求だった。

画像: 新十両・長浜と輪島の初対決。十両では異例の懸賞が懸かり、日大と東農大応援団のエール合戦も 繰り広げられた話題沸騰の〝黄金カード〞だった

新十両・長浜と輪島の初対決。十両では異例の懸賞が懸かり、日大と東農大応援団のエール合戦も
繰り広げられた話題沸騰の〝黄金カード〞だった

十両で実現した輪島とのプロ初対決

 この一から十まで対照的な二人がプロに入って初めて顔を合わせたのは、豊山が入門して4場所目の昭和45年秋場所6日目のことである。

 1場所早く入門した輪島は、いきなり幕下で2場所連続7戦全勝という離れワザをやってのけ、3場所目には早くも十両に昇進。このときは十両3場所目で西の6枚目だった。

 これに対して、豊山はまるでこの宿敵・輪島の後を追いかけるように、入門2場所目、3場所目に同じく2場所連続で全勝優勝し、この場所は新十両。しかも、初土俵の6番相撲からこの場所5日目まで21連勝中、と乗りに乗っていった。

 豊山にとっては、ようやく〝生活苦〞というハンデを外し、学生時代の雪辱を晴らすチャンスの到来だった。プロの水にも慣れ、もう負けても言い訳はきかない。

 勝つ自信はあった。というのも、この初対戦する直前の夏巡業中、二人は稽古でもお互いに意識して避け合っていたが、余興で催された「十両、幕下対抗5人抜き戦」で一度だけ対決し、豊山が快勝。すでに小手調べを済ませていたからだった。

 当然のことながら、その日のファンや関係者の視線は、幕内の横綱、大関の一番よりも、この明日の大相撲界を背負って立とうとしている十両の若いライバル対決に集まっていた。自分を売り込むための舞台装置としても申し分ない。

 豊山は、仕切りを重ねながら、身体がだんだん熱くなってくるのがわかった。やがて、時間いっぱい。豊山は頭から思い切って当たって突き放し、離れて勝負をつける作戦を立てていた。馬力では輪島に負けない。

 ところが、輪島の立ち合いは、豊山が頭に描いていた以上に巧妙だった。当たり合った後、豊山の得意の右をスーッと引っ張り込みにきたのだ。

「あっ、いけない」

 と豊山が思ったときはもう後の祭りだった。まんまとその術中にはまって右四つがっぷり。その後、輪島に先手、先手と攻撃を仕掛けられ、必死に抵抗したものの、とうとう力尽きて寄り切られてしまった。(続く)

PROFILE
豊山広光◎本名・長濱廣光。昭和22年(1947)10月22日生まれ。新潟県新発田市出身。時津風部屋。185㎝130㎏。東京農大から昭和45年春場所幕下尻付け出しで初土俵、同年秋場所新十両、46年九州場所新入幕。47年名古屋場所より師匠の四股名豊山を継承。幕内通算51場所、352勝413敗、殊勲賞1回、敢闘賞2回。56年夏場所限りで引退後、年寄湊を襲名。翌年末に独立して湊部屋を創設、幕内湊富士らを育てた。平成22年(2010)7月に名跡交換で元湊富士に部屋を譲り立田川を襲名。24年10月停年退職。

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