果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

※巨体を生かした寄りを主体に、横綱まで上り詰めた大乃国
写真:月刊相撲

選んだのは金メダルより横綱目指す道

 ツーンと木の香の匂いがする。真新しい畳に青々とした色が目にしみる。これからここがオレたちの城だ。もうあの意地悪な兄弟子たちはいない。そう思うと、心の中に広がっていた黒雲が見る見る吹き飛んで、ジッとしていられないような気持ちになる。外はまだ春と呼ぶには早い、肌を刺すような風が吹いていたが、18歳の大乃国はまるでポカポカした日だまりの中にいるような気分だった。

「いい体をしているねえ。素晴らしい。せっかく天から授かったその体を生かさない、という手はないよ。どうだ、力士になってみないか。どこまでやれるかは本人の努力次第だけど、君なら横綱も決して夢ではない。賭けてみるだけの価値は十分ある、と思うんだけどなあ」

 と、大乃国がまだ当時現役の大関だった師匠の放駒親方(元大関魁傑)に会い、心をかきたてられたのは、その4年前の夏、暑がりの力士たちが涼を求めて北海道を巡業で回っている最中のことだった。

 このとき、大乃国は河西郡芽室町の芽室中学3年生。体の大きさもひときわ目立っていたが、柔道でも近隣ではちょっと知られた存在だった。

 大会に出ると、いつも上位進出は間違いなしで、この3年のときも北北海道大会や、各種の地区大会の優勝を総なめし、北海道中の有望な柔道少年たちが集まる札幌の東海大四高から、

「君の素質なら、オリンピックで金メダルだって取れる。一緒にやろう」

 と特待生扱いで進学を誘われていた。

 田舎の少年にとって、こんなふうに札幌の有名校から声を掛けられるというのは、大変なことだった。 

 余談だが、隣の広尾町に、1つ年下で、やはり柔道少年だった北海海(元横綱)が住んでいた。学年が違ったので二人が対戦したことはいっぺんもなかったが、この大乃国が東海大四高に勧誘されている、というハナシを聞いたとき、北勝海も、

「あの人ならそうだろうなあ。オレたちとは、モノが違うもの」

 と驚き、うらやましく思ったという。大乃国はきらきら光っていた。

 柔道か、相撲か。二者択一を迫られた大乃国は、10月に再度、芽室町に口説きに現れ、12月には部屋の下見を兼ねて東京見物に誘われるなど、放駒親方の情熱と人柄に打たれて、初めて会ってからおよそ半年後の昭和53年(1978)1月末、

「一生懸命頑張りますので、よろしくお願いします」

 とオリンピックの金メダルよりも横綱を目指す道を選んだ。

画像: 昭和56年初場所後、花籠部屋から独立した放駒部屋の部屋頭として若い衆に胸を出す 幕下時代の大乃国(当時大ノ国)

昭和56年初場所後、花籠部屋から独立した放駒部屋の部屋頭として若い衆に胸を出す
幕下時代の大乃国(当時大ノ国)

待っていたのはいばらの道

 ところが、上京してみると、あまりに自分が話に聞き、想像していた生活と、現実の生活の違うことに驚いた。なにしろ自分の師匠の放駒親方はまだ現役の力士で、引退し、実際に部屋を興したのはその3年後。まず大乃国は放駒親方の内弟子として師匠の師匠、つまり、横綱の輪島らがいる本家の花籠部屋に預けられたのだ。

 みんなと一緒に稽古し、同じ釜の飯を食べていても、いずれ放駒親方が独立したときには出ていき、土俵上で敵味方に別れなければいけない身なので、どうしても周囲の目は冷ややか。悪いことに、当時の花籠部屋は大相撲界でも五指に入る大部屋で、長年、幕下あたりで冷や飯を食っている意地の悪い古株の兄弟子には事欠かなかった。

 せっかく付け人についた輪島の着物をきちんとたたんでおいても、いつの間にか、ワザとしわくちゃにされ、

「こらっ、起きろ、横綱の着物をこんなたたみ方しやがって。もう一度、たたみ直せ」

 と夜中にたたき起こされたことがあった。もちろん、稽古場でも、たっぷりと悪意に満ちた可愛がりを。

 それから丸3年が経った。どんな人間でも、風当たりが強いと、なんとか少しでもそれを和らげようと工夫する。妥協だ。ぶちまけて言えば、ごますりである。

 体重も100キロをはるかに超え、見るからに力士らしくなった大乃国は、自分の体からだんだん北海道の土の匂いが消えていくのに気付いていた。しかし、都会っ子のように機転を利かし、要領よく立ち回らないと、そういつまでも内弟子生活は耐えられない。

 それは生きていくための方便、必要悪というものだった。でも、これがひたむきさが一番の売り物の相撲っぷりにも顔を出すようになると、事態は深刻だ。

 53年春場所、初土俵を踏んだ大乃国の出世は、とても次々に昇進の史上最年少記録を塗り替えた貴花田のようにはいかなかったが、それでも大器の片鱗を随所に見せて、まずまず。3年後の56年初場所にはとうとう幕下に昇進した。

 ところが、この初めての幕下でいきなり初日から3連敗し、後半、なんとか盛り返したものの、結局、3勝4敗と負け越してしまい、たった1場所でまた元の三段目に後戻りする破目に。

 負け越した原因はいろいろあったが、やはりいちばん大きかったのは心の問題だった。兄弟子たちの目を気にし過ぎて、いつの間にか相撲に対する純粋さや謙虚さを失っていたのである。

 このままでは、オレは確実にだめになる。大乃国は、その日、この日をただなんとなく過ごしている無気力な古参の兄弟子たちの上に、数年後の自分の姿をダブらせ、思わず身震いした。一体どうやったら、兄弟子たちから逃げ出せるのか。方法は一つしかない。

 大乃国は焦っていた。そこに、まるでタイミングを見計らっていたように、待ちに待ったことが起こった。引退して丸2年、大乃国の気持ちを横目にずっと部屋付きを続けていた放駒親方(元大関魁傑)がやっと重い腰を上げたのだ。

 独立である。当時放駒親方の内弟子は11人に膨れ上がっていた。その中の出世頭がこの大乃国。これでもう兄弟子たちの目を気にせず、相撲に思い切り集中できる。

 理事会で、正式に放駒親方の独立と、内弟子たちの移籍が承認されたのは56年の1月28日のことだった。新しい部屋は、今までいた花籠部屋から歩いて5分余りの所にあった。(続)

PROFILE
大乃国康◎本名・青木康。昭和37年(1962)10月9日、北海道河西郡芽室町出身。花籠→放駒部屋。189㎝211㎏。昭和53年春場所初土俵、57年春場所新十両、58年春場所新入幕。60年名古屋場所後、大関昇進。62年夏場所、全勝で初優勝。同年秋場所後、第62代横綱に昇進。幕内通算51場所、426勝228敗105休、優勝2回、殊勲賞5回、敢闘賞2回。平成3年名古屋場所で引退後、年寄大乃国から5年3月に芝田山を襲名。平成11年6月に独立して芝田山部屋を創設、弟子の指導育成にあたっている。

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