※写真上=連覇を決めた昭和48年初場所後、32歳で横綱に推挙された琴櫻
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

どん底の大関時代から脱出

 一人、取り残される、ということほど、この世の中で寂しいことはない。琴櫻がニックネームの〝猛牛〞そのままの相撲で大関に昇進したのは、初土俵から9年後の昭和42年(1967)秋場所後。まだ26歳のときだった。

 そして、それから5場所後の43年名古屋場所には初優勝。さらにその後の44年春場所にも、2度目の優勝をしている。つまり、若くて最も横綱の近くにいるホープだったのだ。ところが、その後、手のひらを返したように、ただ参加しているだけのお荷物生活がおよそ4年半も続くことになる。

 その低迷ぶりがどんなに惨憺たるものだったか。44年夏場所から47年秋場所までの21場所のうち、途中休場が3場所、8勝7敗が3場所、9勝6敗が7場所と、半分以上の13場所も占めていたことでよくわかる。

 そんなどん底で、琴櫻は二つの人生のエポックを体験した。結婚と子どもの誕生だ。

「猛牛の体に、鳩の心臓」。いかつい顔に似合わず、純情家で、心優しい琴櫻のことを、当時、周りの人たちはこんなふうに表現していた。

 そんなうぶな琴櫻が恋をした。相手は宮崎市の勧進元の娘だった章予さん。巡業で宮崎市に行ったときに、一目惚れしてしまったのである。

 この口下手で融通の利かない琴櫻が、章予さんにどう接近し、どうやって結婚にこぎつけたか、そのいきさつをこと細かに書いていくと、恐らくそれだけで一冊の本ができるに違いない。とにかく大熱戦の末に、やっと章予さんのハートを射止め、結婚式を挙げたのは、見初めて2年後の45年6月。琴櫻が大関になって4度目のクンロクに終わった夏場所後のことだった。

 長女の真千子さんが生まれたのは、そのちょうど1年後の46年6月。その直前の夏場所の琴櫻は、左足の小指を脱臼し、3日目から休場。さらに、その前の春場所には、前の山戦が無気力相撲と判定される〝事件〞を引き起こしている。

 どちらも男として、これ以上はない、といういたたまれない思いの中での出来事だった。

「もうあのことは、つらいなんてもんじゃないですよ。うちに帰って、女房や、すやすや寝ている子どもの顔を見るたびに、このままじゃいかん、なんとか頑張って、せめて一度ぐらいはいい思いをさせてやらないと、と思ったものです。スランプの原因? それはハッキリしていました。ケガですよ。稽古場ではだれにも負けない自信がありましたから。本場所でも、あの大鵬さんの右腕を極めて、ワッと言わせたこともありましたし。でも、不思議に肝心なところでケガをするんですね。この体さえちゃんとよくなったら、オレだってやれるんだ、今に見ていろ、といつも心の中で思っていました」

 そして、ついにそのブスブスとくすぶっていた琴櫻の意気込みが突然、発火。メラメラと天をも焦がす勢いで大きな炎を上げて燃え上がる日がきた。

画像: 昭和47年九州場所後の宮崎巡業で、長女・真千子さんを抱く琴櫻 写真:月刊相撲

昭和47年九州場所後の宮崎巡業で、長女・真千子さんを抱く琴櫻
写真:月刊相撲

突如開花した、遅咲きの桜

 真千子さんが生まれて5カ月後の47年九州場所。その前の2場所の勝ち星が8勝、9勝と二ケタにも届かなかった琴櫻が、まるで別人のように初日から7連勝。8日目、金剛に負けたが、9日目からまた7連勝し、とうとう22場所ぶりに3度目の優勝をしてしまったのだ。

 この晩秋の狂い咲きには、みんな目をこすってビックリしたが、それから2カ月後にもう一度、この九州場所のときよりもっと驚くことが起こった。なんと今度は初日から11連勝。12日目、福の花に1敗したが、翌日から再び勝ち続け、またしても14勝1敗で優勝をやってのけたのである。

 2場所連続の優勝。文句なしの横綱だ。このとき、琴櫻は32歳1カ月。これは昭和以降の4番目の高齢横綱誕生(最高齢は吉葉山の33歳9カ月)だった。また、大関32場所は昭和以降で6番目の長期在位記録(平成4年当時)。横綱になった力士でこんなに長く大関で遊んでいた力士は、それまで皆無だった。

 なにからなにまで遅咲きの記録づくめの昇進。

「オイ、やったぞ」

 と最初の優勝のときも、横綱昇進を決めた次の優勝のときも、琴櫻は部屋に凱旋すると、真っ先に電話に飛び付き、章予さんに報告し、感謝の言葉を付け加えた。この9回の二死走者なしから3点差を引っくり返す逆転満塁ホームランが飛び出したような奇跡がだれのおかげで起こったのか、よく分かっていたからだった。

「あのときは、とにかく夢中。知らない間にああなって、気が付いたら終わっていた、という感じだったですねえ。残念ながら、昇進したときの年齢が年齢だったですから、横綱は8場所しか務められなかったですけど、自分としてはもうあそこまでが精いっぱい。その代わり、素晴らしい経験をいっぱいさせてもらいましたよ。今、弟子たちを教えるとき、それがどのくらい役に立っているか、分かりません」

 この流れ星のようにキラッと光って燃え尽きた最後の1年半が、5本の指に入る名伯楽をつくったのだった。(終。次回からは横綱・2代若乃花幹士編です)

PROFILE
琴櫻傑將◎本名・鎌谷紀雄。昭和15年(1940)11月26日、鳥取県倉吉市出身。佐渡ケ嶽部屋。182㎝150㎏。昭和34年初場所初土俵、37年名古屋場所新十両、38年春場所新入幕。42年秋場所後、大関昇進。47年九州、48年初場所と連続優勝し、第53代横綱に昇進。幕内通算65場所、553勝345敗77休、優勝5回、殊勲賞4回、敢闘賞2回。昭和49年名古屋場所前に引退、年寄白玉から佐渡ケ嶽部屋を継承。大関琴風、関脇琴錦、琴富士、琴ノ若ら関取22人を育てた。平成11年11月停年退職、19年8月14日没、66歳。

This article is a sponsored article by
''.