※柔らかい足腰と甘いマスクで、女性ファンを魅了した2代若乃花
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

迫られる力士生命に決断

 見上げると、東の空が白んで、真夏の太陽が顔を出しかけている。昼間は暑くよどんでいる空気も、この午前5時を過ぎたばかりの時間はヒンヤリと冷たく、生き生きと生気を帯びている。

「ああ、一体オレはどうなってしまうんだろう。ホントにもう力士としてはダメなのかなあ」

 ここは福島県の郡山市から「水郡線」という支線に乗って1時間余り入った所にある石川町。毎朝、湯治客のほとんどいないひなびた温泉宿を出て、およそ4キロ離れた治療院に向かいながら、若乃花(2代目、初土俵の四股名は下山、当時は朝ノ花。昭和48年初場所に若三杉、53年夏場所後に若乃花。ここでは若乃花に統一)は、もうクセになっている大きなため息をついた。

 若乃花が、腰に、しびれとも痛みともつかない違和感を持つようになったのは、入門して3年目の昭和45年(1970)、やはり夏だった。その違和感がだんだん高じ、やがて身動きするのもやっと。

 驚いて病院に駆け込むと、病名は「椎間板ヘルニア」だった。それも、

「あっ、こりゃ、ヒドいなあ。しばらく治療してみますが、最終的には手術するしかないかもしれないなあ」

 というショッキングなセリフ付き。

 若乃花が師匠の二子山親方(元横綱初代若乃花)に連れられ、隣町の浪岡町(現青森市)出身の1つ年上の隆の里と一緒に青森から上京し、力士の一を歩くことになったのは43年6月のことである。若乃花の脳裏には、故郷の大鰐町を出てくるときの母の涙ぐんだ顔や、一晩中気になって寝付かれなかった寝台車の振動音が、まるで昨日のことのように鮮明に焼き付いている。

 身近な友だちほど、一番のライバル。ようし、隆の里なんかに負けるものか。アイツが10番稽古するんだったら、オレは11番やってやる。焼け付くような大志を抱いて上野駅に着いた日から、これが若乃花の心の活力源だった。

 もともと体が柔らかく、運動神経も群を抜いていただけに、若乃花の力士としてのスタートは、まさに順風満帆。序ノ口から7場所続けて勝ち越し、序二段で上がったり下がったりの隆の里を尻目に、4場所目にはもうその上の三段目に駆け上がっている。

 しかし、入門したときの若乃花は15歳。いつしかこの早過ぎる出世と、強烈なライバル意識が、まだ成長盛りでしっかり固まっていない若い体を蝕んでしまったのだ。

「この医者はヤブだ。なに? 手術すると、もう相撲が取れないって。せっかく相撲がおもしろくなってきたところなのに、そんなバカなことってあるかい。いいよ、別にここだけが病院じゃないんだから。外に、もっといい病院がいっぱいあらあ」

 この思いもしなかった診断に打ちひしがれた若乃花は、医者の説明もそこそこに病院を飛び出すと、夢中で別の病院に走った。ところが、そこでもまた同じ病名と、同じ診断を。

 昭和45年後半から47年前半にかけてのおよそ2年間、若乃花は、腰の痛みのために稽古らしい稽古ができず、廻しを締めているときよりも、部屋の2階でゴロゴロしていることのほうが多かった。この間、合わせて7軒の病院を訪ねたが、どこの病院でも力士生命と引き換えの手術を勧められたのだ。もう誤診ではない。

「いつまでもこんなことをしていたって仕方ないから、思い切って手術を受けて、青森に帰ろうか」

 一人で天井を見上げていると、いつの間にか弱気の虫が頭をもたげて、若乃花の心をさいなんだ。そして、その決心がほとんどつきかけたとき、兄弟子の長山(58年廃業、最高位幕下)を激励に来ていた父親が、若乃花の所にやってきて、

「下山(若乃花の本名)くん、大変だなあ。実は私も腰が悪くてね。若いときからあっちこっちで治療してもらっているんだが、一軒、いい所を知っているんだ。(力士を)やめなきゃいけないんだったら、だまされたと思ってそこに行ってみないか。ウチの息子よりずっと有望なんだから、このままやめるのはもったいないよ」

 と、この石川町の『石川整復院』という治療院を紹介されたのだった。

 47年名古屋場所中のことで、若乃花は千秋楽がくると、藁をもすがる思いで汽車に飛び乗り、ここにやってきた。そして、みんなが真っ黒になって夏巡業から帰り、秋場所の稽古が始まるまでの25日間、石川温泉に宿をとって、朝の5時に起きると、およそ4キロの道程を稽古代わりに歩いて治療院に行き、夕方、治療を終えると、また歩いて帰る、という生活を続けたのだ。

 回復の兆しが現れなかったら、秋場所は休場し、廃業するかどうかのメドをつける、というのが、この石川町に来る前に心の中で決めたスケジュールだった。

画像: 幕下時代、同期でライバルの隆の里(右)の胸を借りる若乃花 写真:月刊相撲

幕下時代、同期でライバルの隆の里(右)の胸を借りる若乃花
写真:月刊相撲

力士として息を吹き返した日

 その運命の25日が過ぎ、帰京してみると、幾分、腰の痛みが収まったような気がする。これなら休場しなくてすむかもしれない。そう思って、恐々ながら出場してみると、若乃花は奇妙なことに気付いた。

 まったく稽古していなかったにもかかわらず、体が何年ぶりかに軽やかに動くのだ。この場所、若乃花の地位は、十両目前の西幕下10枚目という一つの勝ち星が大きくものを言う激戦区だった。12日目の6番相撲を終わって、成績は3勝3敗のまったくの五分。

 泣くか笑うかの勝ち越しがかかった最後の7番相撲の宇久乃島戦(三保ケ関)は、若乃花が再三、モロ差しになって攻め、そのたびに宇久乃島が弓なりになって残す、というサバイバル戦にふさわしく、手に汗握る大相撲になった。今までの若乃花の腰だったら、とっくにギブアップの白旗を挙げている展開である。

 しかし、若乃花の猛攻は、この腰に負担がかかる体勢になっても一向に衰えず、とうとうこの懸命に粘る長身の宇久乃島を寄り倒し、4勝3敗と勝ち越してしまったのだ。

「信じられない、というのは、あのときのことを言うんでしょうねえ。まさか出場できて、しかも、あんな相撲で勝てたんですから。もしかするとオレの腰は治るかもしれない。また力士としてやっていけるかもしれないぞ、という希望が湧いてきて、あの日のうれしかったことは生涯忘れません。千秋楽が終わると、すぐ石川町にとって返し、また治療院通いを再開したこともよく覚えています。今日のオレがあったのは、あの治療院のおかげ。その後、腰ばかりでなく、体のどこかにちょっとでも異常があると、あそこに飛んで行くのが決まりになってしまいました」

 のちに、間垣部屋の総帥となった若乃花は、力士として息を吹き返した日のことを振り返った。

 それから6年後の53年夏場所後、若乃花は第56代横綱に昇進。新横綱場所を終えて1周間にもならない7月21日、若乃花はこの石川町を訪ねると、すでに亡くなっていた『菊地整復院』の院長・菊地利さんの眠る『乗蓮寺』の墓前で、太刀持ち・貴ノ花、露払い・玉ノ富士を従えて、まだ初々しい雲龍型土俵入りを披露した。

「先生、オレが横綱になったら、お礼に先生の前で土俵入りをして見せるよ」

 これが腰痛の痛みから解放され、前途に光明を見出したとき、若乃花が院長にした約束だったからだ。(続)

PROFILE
若乃花幹士◎本名・下山勝則。昭和28年(1953)4月3日、青森県南津軽郡大鰐町出身。二子山部屋。186cm129kg。昭和43年名古屋場所初土俵、48年名古屋場所新十両、同年九州場所新入幕。52年初場所後、大関昇進。同年夏場所初優勝。53年夏場所後、第56代横綱に昇進すると若三杉から若乃花に改名。幕内通算55場所、512勝234敗70休、優勝4回、殊勲賞2回、技能賞4回。昭和58年初場所、29歳の若さで引退。年寄若乃花から同年5月に間垣を襲名、12月に分家独立。前頭大和、五城楼、若ノ城、若ノ鵬らを育てた。平成25年12月19日、退職。

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