※写真上=昭和46年名古屋場所、初の技能賞を受賞。ひたすら前進した黒姫山は三賞の常連だった(左は殊勲賞の貴ノ花、中央は敢闘賞の義ノ花)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】力道山に憧れプロレスラーを目指していた黒姫山だったが、力道山の急死で断念。急きょ、大相撲入りの話が進み、第二の力道山から横綱を目指すことになった。それから5年、20歳3カ月で十両昇進を決めるも、関取になるための支度代100万円が用意できないという、厳しい現実にさらされる――

うれしかった故郷のサポート

「師匠は、とにかく田舎に帰ってこい、そうすれば黙っていてもできるもんなんだから、と言うんですよ。でも、オレんとこの田舎は、これといった企業もないし、どうしていいか分からず、まず町役場に行って町長に話をしたんですよ。そしたら、町長は、今までこの町からそういう力士が出たことがないので、前例がない、というんです。困っちゃってねえ。でも、そのうちに、町長をはじめ町の有志の方々が見兼ねて、せっかくこの町出身の関取が誕生したんだから、みんなでなんとかしてやろうじゃないか、と町中を走り回ってくれ、なんとかお金が集まったんです。あのときはうれしかったなあ。と同時に、こんなに大変な思いをして応援してくれたんですから、もし1場所で幕下に落ちるようなことにでもなると、一生田舎に帰れない、というプレッシャーがすごくって、あのときは昇進の喜びどころじゃなかったですねえ」

 と武隈親方(当時、元関脇黒姫山)は新十両力士につきものの意外な(?)苦労を打ち明ける。おそらく今でも新十両力士の多くが、昇進と引き換えにこの洗礼を受けているはずだ。

 そして、翌昭和44年(1969)春場所、十両10枚目に昇進した黒姫山は、連日、悲壮な顔で土俵に上がり、見事10勝5敗という好成績を挙げた。勝ち越したのは、奇しくも前の場所と同じ13日目で、相手は吉王山(三保ケ関)。相撲内容も、まるで十両当確を決めた嵐山戦のビデオテープを見ているような強烈なぶちかましが決め手の「デゴイチ相撲」だった。

「ああ、これで田舎の人たちにも、顔向けができる」

 仰向けに倒れた吉王山を助け起こしながら、黒姫山は、プロレスラーの道をたどっていても、こんな体の芯がしびれるような快感に酔いしれることがあっただろうか、とふと思った。

画像: 無尽蔵のスタミナで激しい稽古を繰り広げた玉の海(左)と大鵬の両横綱 写真:月刊相撲

無尽蔵のスタミナで激しい稽古を繰り広げた玉の海(左)と大鵬の両横綱
写真:月刊相撲

玉の海に可愛がられた夏巡業

 この世には、上には上の人間がいくらでもいる。

 その後の黒姫山の出世は、すこぶる順調だった。十両をわずか2場所で通過し、昭和44年名古屋場所には早くも入幕。残念ながら、この場所は4勝しかできず、十両に転落したが、1場所で幕に返り咲くと、今度は猛然と突っ走った。

 この黒姫山の出世の軌跡は、2歳年下の貴ノ花(のち大関)のそれとほとんど同じと言っていい。

 黒姫山の胸には、今も生き生きと一つの光景が息づいている。それは幕内に定着してほぼ1年、という45年夏巡業のことだった。

 当時の巡業は、北の富士、大鵬、玉の海の3横綱がそれぞれ長を務める3班に分かれ、黒姫山は、貴ノ花と同じグループの玉の海班に組み入れられたのである。

 この当時26歳の玉の海のタフさは、今も語り草になっているくらい飛び抜けていた。貴ノ花は、同じ二所一門ということもあってこの横綱に可愛がられ、しょっちゅう稽古をつけてもらっていたが、とても一人では体が持たない。そこで、伸び盛りの黒姫山にもお声が掛かり、およそ1カ月の巡業中、2人で玉の海の稽古台を務める栄に浴したのだ。

「自分は、大鵬さんや、柏戸さんなどの胸も借りたことがありますけど、玉の海さんというのは、この2人と全然タイプが違い、小さかったけど、下半身がガチッとして、力がものすごく強かったなあ。それに絶対に向こうから土俵を下りるということはしなかったですからねえ。とにかくスタミナは超人的。あのときも、貴ノ花さんと交互にぶつかっていったんですが、いつも、フラフラにされるのは若い2人。でも、あの夏の稽古は、いろんな意味で、とってもプラスになりましたよ」

 と、武隈親方は、この23年前の汗と泥にまみれた夏を懐かしそうに語った。

 この猛稽古の成果が劇的に表れたのは、それから3カ月後の45年11月の九州場所のことだった。

 幕内8場所目で初めて小結に昇進した黒姫山は、まず5日目に大鵬と対戦。立ち合い、当たると見せかけて右に変わり、右から突き落とす、という奇襲をかけると、この日がちょうど序ノ口から1000回出場の大鵬はまんまと引っ掛かり、前に大きくつんのめってそのままバッタリと四つん這いになったのだ。

「オレにとって大鵬さんは神様みたいな人。そんな人にまさか勝てるなんて」

 この記念すべき日に、若手の頭脳プレーを喫し、

「この野郎、何を面白くない顔をしているんだ」

 と付け人に八つ当たりをしている大鵬と対照的に、殊勲の黒姫山は支度部屋に花道を小躍りしながら引き揚げてきたが、これは序曲のようなものだった。そして、その3日後。8日目の相手は、夏巡業で散々お世話になった玉の海だった――(続)

PROFILE
黒姫山秀男◎本名・田中秀男。昭和23年(1948)11月12日、新潟県糸魚川市出身。立浪部屋。182
cm147kg。昭和39年春場所初土俵、44年春場所新十両、同年名古屋場所新入幕。関脇8場所、小結を10場所務めた。幕内通算72場所、510勝570敗、殊勲賞4回、敢闘賞3回、技能賞1回。昭和57年初場所、引退。年寄錦島、山響、出来山、北陣を経て武隈を襲名。平成11年(1999)3月には息子2人とともに独立(16年まで)。その後、友綱部屋付きとなり、25年11月停年。

This article is a sponsored article by
''.