※写真上=昭和48年初場所、そろって小結に昇進した増位山(左)と北の湖(中央は三保ケ関親方)
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】水泳でオリンピック金メダルへの道をあきらめ、父の猛反対を受けながら実家である三保ケ関部屋に入門した増位山。関取になれる自信満々で土俵に上るも、序二段で壁にぶち当ってしまう。何とか勝ち越したものの、怖いもの知らずの18歳の少年にとっては、初めて舐めたプロの塩っぱくて、苦い味だった――

5歳年下の天才少年との出会い

 身近にライバルがいるというのは、この世のどんな妙薬にも勝る奮発剤だ。

 増位山が、北海道から力士になるために出てきたばかり、という体の大きな少年に初めて会ったのは、父と力士になるかどうかで、すったもんだの激しい「闘争」を繰り広げていた昭和41年(1966)末のことだった。

 少年の名前は、北の湖(本名・小畑敏満)。当時、中学1年生で13歳だった。そのころはまだ中学生力士が公認されており、初土俵は二人とも一緒の42年初場所。つまり、増位山と北の湖は同期生である。

 しかし、都会育ちで、高校生の増位山から見ると、この5つも年下で、しかも田舎育ちの中学生を、同期生とはとても言いづらかった。それだけ子どもっぽく見えたのだ。

 ところが、この茫洋とした少年が、そのつかみどころのない表情の奥にとてつもない素質を秘めた大物であることを発見したのは、一緒の部屋で寝起きを始めて間もなくのことだった。

 気は強いほどいい。

 これは、後年、増位山が長年の経験から行き着いた「力士として大成するための秘訣」の第一項である。

 あるとき、増位山と北の湖の二人はちゃんこ番を務め、後片付けを担当していた。稽古上がりの兄弟子たちが慌ただしくちゃんこをかき込んだ直後のことだから、ちゃんこ場のあちこちにご飯や水などが飛び散り、こぼれている。

 北の湖がそのこぼれた水を指さして、5つ年上の増位山に向かい、こう言ったという。それも、いかにもぶっきらぼうに。

「オイ、そこを拭けよ」

 これを聞いて増位山がムッとしたのは言うまでもない。

「こっちは仮にも年上。しかも、師匠の息子ですよ。それを捕まえて、中学1年の分際で、オイ、ですからねえ。でも、北の湖は、そういうことはまったく無視し、自分のことは単なる同期生としか見ていなかったんです。そりゃあ、そのときは、この野郎、と腹が立ちましたよ。でも、今、振り返ってみると、あの年齢で、あんなふうに言えるってことは、やっぱりすごいと思いますね。それだけ図太くて、負けん気が強いってことの表れですから。自分もそうでしたけど、普通の力士っていうのは、入門して、夢中でやっているうちに、だんだん負ける悔しさというのが分かってきて、これじゃいかん、もっと頑張らないと、というふうになるんです。でも、北の湖の場合は、入ってきたときから、もうその負ける悔しさを知っていたんですから。このことだけを取ってみても、彼は天才ですよ。それから2年余り、部屋から中学に通っていたために稽古らしい稽古はしていなかったのに、大学出身力士を手玉に取ったり、卒業するときは幕下になるなど、このほかにも天才ぶりを裏付けるエピソードはいくらでもありますが」

 と、三保ケ関親方は、貴花田(のち横綱貴乃花)に塗り替えられるまで十両入り、入幕などの史上最年少記録をつくり、24回も優勝した北の湖の怪童ぶりについて話す。

 しかし、入幕までの出世は、この天才力士よりも、増位山のほうがずっと早かった。初土俵からわずか15場所で十両に昇進。その十両もわずか4場所で通過し、入門して4年目に入ったばかりの45年春場所には、もう幕内に名を連ねている。このとき、同期生の北の湖は、両国中学を卒業して1年経ったところで、まだ幕下だった。

画像: 入門から間もない新弟子時代。右から増位山、北の湖、吉王山 写真:月刊相撲

入門から間もない新弟子時代。右から増位山、北の湖、吉王山
写真:月刊相撲

微妙で複雑なライバル関係

 この増位山の目を見張るようなスピード出世に、戦後の20年代前半に2度も優勝している父譲りの非凡さと、年下の強豪、北の湖に対する増位山の燃えるようなライバル意識が垣間見える。

 その北の湖に、ついに逆転を許したのは、そろって小結に上がった49年初場所だった。

「北の湖は再で、こちらは新。向こうは前の場所で右足を痛め、場所前、ほとんど稽古していなかったんですが、相撲っぷりがそれまでとガラッと違うんですよ。それを見て、あっ、こりゃ、すぐ上に行くな、と思いましたよ。案の定、その場所、初優勝して大関になりました。こっち? 予想どおり、三役の壁に跳ね返されて、5勝10敗と大負けしてしまいました」

 と、三保ケ関親方は頭をかいた。

 しかし、これで兜を脱いでしまったわけではない。

 この北の湖に遅れること丸7年。55年初場所、増位山は、自分でも、

「あれは最初で最後だった」

 という、突然、目の前に降って湧いたようなビッグチャンスを見事にものにし、31歳で大関に昇進した。

 この奇跡の大関取りに成功した次の春場所直前、大阪の宿舎に京都の料理茶屋から板前が数人、わざわざ出張してきて、盛大な内祝いが行われたときのことである。

 北の湖と増位山の二人は、お昼前から向かい合ってグイグイ飲み始めた。

「うまい料理は次々に出てくるし、お互いに、あとに引くとか、譲る、ということを知らない関係ですからねえ。最初はさしつさされつ、穏やかそのものだったんですけど、そのうちにだんだん馬力がかかってくると、もういけません。それ飲め、やれ飲め、で、午前11時ごろから飲み始めて、終わったのは午後4時ごろだったかなあ。周りを見渡すと、途中で顔を出した人たちがみんな、酔いつぶれて引っくり返っていました。もちろん、二人ともベロンベロン。現役時代、あんまり二人だけで飲んだり、遊んだりした記憶がないのは、二人ともすぐ遊びの域を通り越して、あんなふうにトコトン勝負しちゃうからだったんですよ」

 と、三保ケ関親方は、この微妙で複雑だったライバルとの関係を分析してみせる。

 ちなみに、この土俵外の大一番で二人が飲み干した酒の量は、

「オレは20本ずつ入ったビールのケースを4箱、空にし、向こうは日本酒を、一升瓶で6本か、7本空けた」

 と北の湖親方は証言している。

 たとえ勝負の結果は分かっていても、現役でいる間は、負けを表明したらおしまい。そんなことをしたら、勝負師としての大事なものが消滅し、土俵に上がれなくなってしまうことを、増位山は本能的に知っていたのである。(続)

PROFILE
増位山太志郎◎本名・澤田昇。昭和23年(1948)11月16日、兵庫県姫路市出身。三保ケ関部屋。180cm109kg。昭和42年初場所、瑞竜の四股名で初土俵、43年夏場所に増位山と改名。44年名古屋場所新十両、45年春場所新入幕。55年初場所後、大関昇進。幕内通算59場所、422勝435敗、技能賞5回。昭和56年春場所、引退。年寄小野川から三保ケ関を襲名。59年11月に三保ケ関部屋を継承し、平成25年11月に停年。

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