※写真上=賜盃を一度も握ることなく「悲劇の大関」ともいわれた豊山だが、年寄としてはのちに理事長にまで上り詰めた。そんなドラマが見えるのも大相撲ファンの醍醐味である
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

同年代のヒーローに贈った熱き声援

 私は昭和14年(1939)の生まれ。相撲にのめり込み出したのは27年ごろからだ。横綱羽黒山や北の洋など主に立浪部屋の力士が好きになった。当時はテレビがないので、情報の頼りはラジオに新聞、雑誌。ラジオにかじりつい聴いたことで今でも鮮やかに記憶に残っているのは、27年秋場所14日目、栃錦が吉葉山を鮮やかな二枚蹴りで宙に舞わせた一番と、29年初場所千秋楽、吉葉山が鏡里を寄り切り、涙の初優勝を飾り、雪中のパレードを行った一連のシーンだ。

 それから少し長じると、私は『相撲』誌に連載されていた渡辺港太郎氏の手になる「昭和相撲史」に刺激され、相撲の記録にのめり込んだ。また、そうこうするうちに自分たちと同じ年代の力士たちの鮮やかな活躍が、マスコミをにぎわせるようになった。柏戸・若秩父・豊ノ海の“ハイティーントリオ”の鮮やかな登場は、私の相撲熱をよりいっそうかき立てた。

 さらに大鵬、柏戸が急速に開花していく一方、大学相撲のエリートとして豊山が鳴り物入りで時津風部屋に入門してきたからたまらない。大物らしく茫洋としたたたずまい、相手を引っ張り込んで振り回すといった感じの大雑把な相撲ながら、豪快に様々な包囲網を弾き飛ばしていく豊山の勢いとかっこよさに私はしびれた。

 まだマゲも結えぬザンバラ髪ながら十両で全勝優勝、新入幕でも12勝3敗で敢闘賞。3場所おくと、12勝、12勝、13勝と続け、それぞれに殊勲・敢闘両賞を受賞、入門わずか2年で大関にまで上ったのである。いかに破竹の勢いだったかが分かるだろう。

 その意味で私の“一枚”はその大関昇進を決めた38年初場所の総決算号(2月号)の表紙である。

 なんというかっこよさであろうか。わずか2年間で大関に上り詰めた快男児の肖像であることに思いを至していただきたい。九州巡業中の写真であろうか、強い日差しのテントをバックに、関取としてのおっとりとした貫禄がにじみ出ている。切れ長の目、眉、えらの張ったアゴ、整った鼻、唇。またこの体つきのたくましさといったらどうだ。大銀杏もきれいに結えている。

 こういうふうに腕を組むポーズは明治時代からあるが、カメラ位置によって出来栄えに大きな差が出る。この写真はノド元に中心を持っていき、見事なバランスで、人物の存在感を遺憾なく示している。

 当時は印刷事情から、現在のように千秋楽の写真を使用していては発売日に間に合わなかったため、千秋楽の数日前に、優勝者を予想して、何種類か魅力的な表紙を用意していたようである。この表紙もおそらく周到な写真選定と、レイアウト、試し刷りを重ねた成果に違いない。オーソドックスでいながらこれほど清新さを持った表紙は、以降(なんと約半世紀!)あまり見たことがない。私はこの表紙に大きな夢を見せてもらったこと、それが自分を励ますことになったことを、今でも感謝している。

 私がその後、豊山と同じような魅力を感じたのは貴ノ浪である。「日本人の期待する大物新星」のスケールの大きいイメージこそは、私が何よりも大相撲を飽きずに見つめ憧れ続けてきた原動力といえるかもしれない。

 モンゴル力士が席巻する今の土俵に、あの上昇気流に乗った豊山を思わせる力士が出てきてくれたら、相撲人気が沸騰すること請け合いなのだが。

語り部=月刊相撲『記録の手帖』筆者 小林康男(大相撲愛好家)

月刊『相撲』平成24年5月号掲載

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