※執拗な食い下がりと多彩なワザで「ピラニア」と呼ばれた旭國
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

上京後に思い知らされた「井の中の蛙」

「ひえーっ」

 と、旭國は思わず小さな悲鳴をあげて飛び起きた。

「今度はどうしても合格したいんだろう。だったら、腰のところに座布団を当てて、一日中じっと寝てろ。いいな」

 と自分をスカウトしてくれた大島親方(当時、元幕内若乃森)に言われ、薄暗い部屋の片隅に横になってからもう半日以上経つ。初めはうとうととして過ごしたがやがて見るからに年期の入った古い天井とのにらめっこになり、フイに木目が北海道上川郡愛別町にいる父・与一さんの、「こんなところで、なにを道草食ってやがる」とにらみつけている顔に見えてきたのだ。

「このまま田舎にいても、先が知れている。オレ、東京に行くよ。石にかじりついても必ず出世してみせるから、待っててくれ」

 7人きょうだいの上から5番目の旭國が、おろおろする父母や兄弟たちに大人びた口調でこう宣言し、力士になるために上京したのはその前年、昭和37年(1962)9月のことだった。

 当時、旭國は中学3年生。たまたま本業の野球ではなく、相撲部の助っ人として北海道の北地区大会に出場し、思いがけなく優勝。これがきっかけとなって立浪部屋に入門を誘われたのである。

 相撲部から駆り出されるぐらいだから、もちろん体の大きさでは学校内でも目立つ存在。旭國も、それなりに自分の体には自信を持っていた。ところが、部屋に着いて思わず目をこすった。会う人、会う人、みんな自分よりもはるかに大きかったのだ。

「井の中の蛙、というのは、あのことを言うんでしょうねえ。体重はともかく、身長が170センチそこそこ(当時、合格は173センチ以上)。それでもオレは大きいんだぞ、と胸を張って部屋の入口をくぐったんですから。それだけに現実を思い知らされたときのショックは、計り知れないものがありましたね」

 それから17年後に引退。自分をこの世界に導いてくれた恩人から年寄名跡を譲り受けて「大島」を襲名した大島親方は、このときの驚きをこんなふうに話している。

 当然のことながら、新弟子検査は、2カ月後の九州場所を皮切りに、翌38年初場所、春場所、夏場所と、身長が足りないために立て続けに不合格。北海道から転校した両国近くの竪川中では、時津風部屋の大潮(のち小結、先代式秀親方)と同級だった。

 すでに1年半前に初土俵を踏んでいた大潮は、このとき序二段。頭の上の堂々たるチョンマゲが、「なんだ、お前はまだ検査にも合格していないのか」といつも自分を見下しているようで、旭國は一緒に机を並べているのがなんとなくつらかった。

足踏みで積んだ「耐える」という稽古

 その竪川中も卒業し、夏が巡ってきたのに、まだ旭國は不合格のまま。6月、旭國は袋小路に追い詰められたような重苦しい気分で5回目の検査日を待っていたのだ。

「横になっていると、身長が少しでも伸びますからね。検査の始まるぎりぎりまで寝てて、さあ、始まるぞ、というときにサッと起きるんですよ。朝、兄弟子にビール瓶で頭を思い切りたたかれるのもイヤだったなあ。でも、タンコブができれば、その分、かさ上げになりますから。師匠は、「もう少し待て、背なんかすぐ伸びるから」と言ってくれてましたけど、本当に伸びるかどうか、保証の限りではありませんし、後から入ってきた者たちが、ただ背が足りているというだけでドンドン追い越していく。あのときの情けない気持ちは、おそらく経験した者でないとわからないんじゃないですかねえ。それに比べたら、稽古のつらさなんかなんでもない。だって、稽古はやればやるだけ、自分の身に付くんですから」

 と大島親方はこの忍従の日々を振り返る。

 ようし、こうなったら、バレたらバレたときのことだ。旭國は、過去4回の検査のたびに泣かされた身長計に乗ると、目を閉じ、思い切ってそっとカカトを浮かして伸び上がった。いけないのは分かっていたが、善悪の判断が麻痺するところまで、旭國は追い込まれていたのだ。

 ニヤッと計測の親方が笑っているのが気配で分かった。怒られる、といちだんと目を固くつぶった瞬間、旭國の耳に思いがけないセリフが響いた。

「よっしゃあ、173センチちょうど。大負けの合格だ」

 旭國は反射的に身長計から飛び降りると、思わず計測の親方に向かってペコリと頭を下げた。

「ありがとうございました。これから死に物狂いで頑張ります」

 後日、旭國は、小さな体にもかかわらず、相手を食いちぎるまで食らいついて離れないところから、「ピラニア」という南米産の猛魚のニックネームをつけられた。また、初土俵を踏んで2年目の夏には、巡業先の新潟で盲腸を手術したが、その5日後にはもうお腹をさらしで固く巻いて、四股を踏み、その上、次の秋場所には勝ち越す、というものすごい執念も見せつけた。この旭國の超人的なエネルギーの源は、この初土俵前の足踏みの中に隠されている、と言っていい。

 急がば回れ。旭國は、本場所の土俵に上がる前に、耐える、という貴重な稽古を積んだのだった。(続)

PROFILE
旭國斗雄◎本名・太田武雄。昭和22年(1947)4月25日、北海道上川郡愛別町出身。立浪部屋。174cm121kg。昭和37年9月入門、38年名古屋場所初土俵。44年春場所新十両、同年名古屋場所新入幕。51年春場所後。大関昇進。幕内通算54場所、418勝330敗57休、敢闘賞1回、技能賞6回。54年秋場所で引退し、年寄大島を襲名、翌55年1月、分家独立し、大島部屋を創設。横綱旭富士、関脇旭天鵬、小結旭道山、旭豊、旭鷲山らを育てた。平成24年(2012)4月停年。

This article is a sponsored article by
''.