現在の競泳日本代表、特に男子は大学卒業後も競技を継続している選手が大勢を占めている。その傾向は、プロ選手が増え始めた世界の競泳界の流れに符号するように2000年前後から年々、強まってきたともいえるが、そんな中、世界での実績を残しながら大学卒業を機に第一線から退いた、唯一の選手がいた。堀畑裕也である。日本の男子個人メドレーの歴史を世界の舞台で切り拓いた男は、なぜその決断を下したのか――。
※文中敬称略

※写真上=現在は母校・豊川高の教員、コーチとして生徒の指導にあたる堀畑
写真◎菅原 淳(スイミング・マガジン)

母校・豊川高の指導者として活躍中

 現役時代の雰囲気、そのままである。「いや、結構きてますよ」と横腹をさすってみせるものの、その照れ交じりの明るい表情はやっぱり変わらない。

 引退から7年。堀畑裕也は現在、母校である愛知の競泳強豪校・豊川高の教壇に立ち、恩師でもある小池隆治部長、深田大貴・男子監督とともに水泳部の指導にあたっている。役割は女子監督で、深田監督と共に全体の指導にあたっている。昨年はリオ五輪代表の今井月(いまい・るな)の指導にも携わり、「月の指導を通して、彼女から多くのことを勉強させてもらい、非常に貴重な時間を過ごすことができました」と指導者として大いに刺激を受けたという。

人生における夢と
やりきった4年間

 まずは、現役時代の輝かしい歩みを紹介する。

 堀畑は身長160cm台ながら競泳種目の中で最もタフな種目ともいわれる400m個人メドレーで力を発揮。高校時代から全国トップレベルの選手として名を馳せ、日本体育大に入学した2009年から大学4年の2012年まで毎シーズン、日本代表入りを果たした。国内ではトップ戦線に絡み始めた高校生の萩野公介(ブリヂストン)と瀬戸大也(ANA)、ベテランの高桑健(自衛隊体育学校)、1学年下では藤森太将(木下グループ)らオリンピックのファイナリスト、そしてメダリストとなる選手たちとしのぎを削り、世界の舞台でも活躍した。2011年上海世界選手権では400m個人メドレーで3位に入り、日本の男子選手として初の同大会個人メドレーのメダリストに。そして翌2012年にはロンドン五輪でも6位入賞を果たしている。

画像: 2011年の世界選手権では日本人男子としては初となる個人メドレーのメダリストとなった堀畑。レース後、優勝のライアン・ロクテ(左)、2位のタイラー・クラリー(中/ともに米国)と健闘をたたえ合う 写真◎毛受亮介(スイミング・マガジン)

2011年の世界選手権では日本人男子としては初となる個人メドレーのメダリストとなった堀畑。レース後、優勝のライアン・ロクテ(左)、2位のタイラー・クラリー(中/ともに米国)と健闘をたたえ合う
写真◎毛受亮介(スイミング・マガジン)

 これだけの実績を挙げていたからこそ、余計に気になっていた。なぜ、大学卒業を区切りにきっぱりと第一線から退く決断をしたのか? と。

「自分の競技生活は、良くも悪くも、22歳(大学4年)のときまで、と大学に入る前から決めていました。大学1年で初めて(ローマ)世界選手権に出ましたけど、そのときは、まだ漠然と世界で闘いたいな、という気持ちがあった程度です。オリンピックが本気で見えてきたのは、その翌年、2010年の日本選手権で400mの日本新記録を初めてマークしたときです。“自分もオリンピックを狙える選手になったんだな”と思いましたし、周りからもそう言われていて、そうなんだなと実感しました。ただ、そういう思いを抱くようになっても、2012年のロンドン五輪は、自分が目指す最初で最後のオリンピックと決めていました」

 とはいえ、世界選手権の表彰台に立ち、オリンピックでもファイナリストになった選手。大学卒業時には、社会人で続ける選択肢はあったはずである。それでも現役引退を選んだ背景には、堀畑自身が抱き続けていた人生における大きな目標があった。

「もちろん、大学4年を終えて何か見えてきたら卒業後も(現役続行を)考えようかなと思った部分もありましたよ。また、周りからも続けた方がいいと、(引退を)止められました。でも、何でしょう、高校のときから(母校の)豊川高の教員になりたい、だから競技は22歳まで、という思いがあって、実績を積んでもそれは変わらなかったんですね。教員としての採用が毎年あるわけではないことは認識していましたし、実際、2年間は大学院に進みました。

 豊川以外の高校教員の選択はあったのか? ですか? いや、考えていませんでした。もしなれなかったらどうなっていたのか、と今思う部分もありますが、当時はそう思い込める勢いがあったのだと思います。自分が豊川高に入学したのは、現在一緒に指導にあたっている深田監督に声をかけられたからです。そこで自分が成長できたことで、将来はここで指導者になりたい、という思いはずっと強く持ち続けていましたから」

 単に「教員志望」というのではなく、「豊川高の教員志望」。ここに堀畑の内面的な強さが表れているともいえるし、同時にそのこだわりがあったからこそ、競技生活にすべてをぶつけることができた、ともいえるのかもしれない。

「大学4年間は本当に、周りに恵まれていました。オリンピック銀メダリストを育成した藤森善弘コーチに指導を受け、入学当時は、同じ個人メドレーの先輩で、憧れでもあった仁木康浩さんが卒業後も残っていて、一緒に練習できましたし、一緒にユニバーシアード大会にも行けた。その翌年は藤森太将(リオ五輪200m個人メドレー4位)、その翌年には清水咲子や高橋美帆(ともにミキハウス/リオ五輪代表)が入ってきて、最後の年には(藤森太将の弟の)丈晴(2014年パンパシフィック選手権・アジア大会代表)が入ってきた。同期には2009年の日豪対抗代表に選ばれた中岡洋子もいて、日体大のIM(個人メドレー)チームは、みな日の丸を身に着けた選手ばかりでした。そういう中で刺激を受けて自分も成長できたことは、僕にとって大きな財産です」

完全燃焼――そのバトンを萩野&瀬戸へ

 堀畑が世界選手権の表彰台に立った2011年、瀬戸と萩野はトップ戦線に絡むべく成長曲線を描き始めたころでもあった。そしてロンドン五輪イヤーが近づけば近づくほど、その勢いを増していた。失礼ながらも、次のような質問を投げかけてみた。当時のふたりが伸び続けていたことも、決断に影響を与えたのだろうか。

「いや、それはありませんでした。ロンドン五輪の同じレース(400m個人メドレー決勝)で当時高校3年生の萩野君が銅メダルを獲ったときも、これで終わりと決めていた部分もあったのか、悔しさも全くなく、心からおめでとうと言えました。彼は覚えていないかもしれませんが、レース直後に『自分はこれで最後だから、あとは日本の個人メドレーをよろしく。これからは君の時代だよ』と伝えると、彼は『そんなことを言わないでください』と答えたことを覚えています。最後の日本代表で臨んだ試合で萩野君が銅メダルを獲得し、その決勝の舞台でともに泳ぐことができたことは私の誇りです。

 あと、9月の岐阜国体の400mで瀬戸君が4分10秒10の高いレベルの自己ベストを出したんですね。彼は4月の日本選手権では個人メドレー2種目とも3位でオリンピック出場を果たせず、打ちのめされていた。でもその苦しい時期を乗り越えて、また秋に復活してきた。そのタイムは自分の自己ベストを超えるものだったので、“ああ、もうやめても大丈夫だ”とも感じました」

画像: ロンドン五輪選考会を兼ねた2012年日本選手権、400m個人メドレーの表彰台。優勝した萩野(中)、3位となった瀬戸(右)の勢いはあったが、堀畑自身はラストシーズンととらえており、最初で最後のオリンピック出場権を獲得した 写真◎Getty Images

ロンドン五輪選考会を兼ねた2012年日本選手権、400m個人メドレーの表彰台。優勝した萩野(中)、3位となった瀬戸(右)の勢いはあったが、堀畑自身はラストシーズンととらえており、最初で最後のオリンピック出場権を獲得した
写真◎Getty Images

 そんな堀畑の思いが伝わったかのように、その後の4年間は瀬戸と萩野が世界の表彰台、400m個人メドレーの頂に立ち続けた。瀬戸は2013、2015年の世界選手権を連覇。萩野は2016年のリオ五輪を制し、瀬戸も3位で、そろって表彰台に上った。ふたりの姿は、堀畑の目にどのように映ったのだろうか。

「正直、彼らが高校生のときは、先に上がってくるのは瀬戸君かなと思っていました。でも2012年の萩野君の成長曲線はすさまじかった。ロンドン五輪の選考会の400m個人メドレーの決勝は今でも覚えています。あのとき、背泳ぎまではリードされて平泳ぎで差を詰めて、と考えていたのが、平泳ぎでほとんど差を詰められなかった。それで、ああ、ひと皮むけたなと。

 自分の最後のシーズンにふたりが活躍したこと、それに翌13年には瀬戸が世界選手権の400m個人メドレーで優勝したことは、本当にうれしかった。オリンピックのメダル、世界選手権優勝と自分が成し遂げられなかったことをふたりが成し遂げたわけですから。

 これは全く上から目線ではないので誤解しないでいただきたいのですが、自分がいなくてよかった、やめたからこそ日本水泳界に新しいページを開いてくれたんだなと感じた部分もありました。それによりふたりのライバル物語も今日まで描かれてきているので、そのこと自体が、自分が悔いなくやめてよかったと感じられる部分でもあります」

重要なのは「覚悟」

 取材は2月のコナミオープン時。帯同する豊川高からの出場者数が少なかったこともあり、堀畑は愛知から千葉まで選手を乗せてミニバンでやって来ていた。レース前の選手にはプールサイドまで下りて声をかけ、レースが始まれば客席でタイムを取る。正式な教員になって4年が経ち、コーチ業もすっかり板についてきた様子だ。

 これからも多くの教え子たちの指導に携わり、いつかは自身のように日の丸を身に付けて世界で羽ばたく選手が出てくるかもしれない。

 最後に、聞いてみた。7年前の自身の決断は良かったのか、そして堀畑が選択しなかった社会人選手として続けることの意味とは?

「よくその二択で聞かれたりしますが、僕自身はやめてよかったと思います。どちらが正しい、正しくないではありません。自分の同級生でいえば、星奈津美(女子200mバタフライ・オリンピック2大会連続銅メダル)であったり、まだまだ現役でトップ戦線にいる鈴木聡美(平泳ぎ/ミキハウス/2012年ロンドン五輪メダリスト)、OWS(オープンウォータースイミング)の平井康翔(リオ五輪10km8位)であったり。長きにわたり世界レベルで戦っている姿は、本当に尊敬します。特に現役の2人は、大学を卒業したあとの4年間だけじゃなく、さらにもう4年、続けているわけですから。

 どんな選手でも、自分がずっと打ち込んできたものに区切りをつけることは重い決断です。それは大学卒業を控えた選手も、高校や中学の卒業を控えた選手でも同じだと思います。

 昔と比較すると、ありがたいことに今ではサポートをしてくださる企業が増加し競技を続けやすい環境があります。その中で水泳を続ける選手も増えていく中、ただひとついえるのは、相応の「覚悟」があるのかどうかだと思います。続けることに対しては否定的ではありません。大学卒業を迎え、その後の目標とする大会へのタイミングもあるので非常に難しい選択になります。社員として通常業務をしながらのスイマーは別ですが、社会人スイマーとして競技中心の生活になるということは、社会に出る時期が遅れてしまうということになります。また、さまざまな面で多大な支援を受けるのも事実です。それらを踏まえて本当の覚悟を持って競技と向き合っていけるのかが重要だと考えています。

 人それぞれ、価値観は違いますし、いつやめるのがよいのか、どこまでやればよいのかについて、正解はありません。いつやめるにしても、やめたあとにやりたいことのビジョン、または目標が明確にあればいいのではないかと思います」

文・構成◎牧野 豊(スイミング・マガジン)

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