青々とした木の葉越しに見える空は、立秋が過ぎたとは名ばかりのまばゆい夏の光に満ちあふれている。今日もまた、30度を超えるのは時間の問題に違いない。

※若々しい取り口で、横綱・大関を脅かし続けた麒麟児
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

待ちきれなかった力士への夢

 青々とした木の葉越しに見える空は、立秋が過ぎたとは名ばかりのまばゆい夏の光に満ちあふれている。今日もまた、30度を超えるのは時間の問題に違いない。

 そこだけは、まるで別天地のようにひんやりとした朝の冷気が残っている両国公園のベンチに、父や母、それにたった一人の姉と座りながら、麒麟児(初土俵のときの四股名は、本名の垂沢。昭和49年初場所、十両昇進時に麒麟児に改名。ここでは便宜上、麒麟児で統一する)は7年前のここでのことを昨日のことのように思い出した。

「ごめんください。あのー、ボク、どうしても力士になりたいんです。弟子にしてください」

 と、黒の詰め襟を着た中学2年の麒麟児が両国駅に最も近い立浪部屋の玄関の戸をおそるおそる開けたのは昭和42年(1967)3月、ちょうど学校が春休み中のことだった。

 当時、麒麟児は千葉県柏市の柏二中の2年生。小さいころから、力士になりたい、という夢に取りつかれ、とうとう我慢できなくなって、柏から電車に乗って両国までやって来たのだ。もちろん、このことを両親に言えば反対されるのは火を見るより明らかなので、一人で、こっそりと。

「どれどれ、こっちに来てみなさい。いくら、力士になりたい、と言っても、身長が173センチ、体重が75キロ以上ないとなれないんだよ。ちょっと測ってみようか。ウーン、体重は97キロか。こっちは大丈夫だけど、身長が170センチで、あと3センチ足りないなあ。でも、伸び盛りなんだから、このぐらい、すぐ伸びるさ。来年、またおいでよ。おじさん、待っているからさ。まあ、せっかく来たんだから、飯でも食べていきなよ」

 あとから考えると、この親切なおじさんは、現役時代、弓取り式で鳴らした大岩山の鳴戸親方(元幕内)だったような気がする。残念ながら身長が足りず、立浪部屋入りには失敗したが、ちゃんこをおなかいっぱいごちそうになった麒麟児は、翌日、この日よりちょっと足を伸ばし、時津風部屋の戸をたたいた。

 ところが、訪ねる前に電話し、

「親方は用事で部屋にはいないけど、いらっしゃい。そういうことだったら、相談に乗るから」

 と言ってくれたお目当ての人はたまたま留守。麒麟児は、この部屋の近くにある両国公園で、その人が帰ってくるまで時間つぶしをすることにしたのである。

 しかし、ただでさえ不安にかられやすい状況にいる少年にとって、見ず知らずの公園ほど落ち着かないところはない。30分、1時間と経ち、その不安が頂点に達したとき、麒麟児の目の前に、まるでこんな心の揺れを見透かしたように頭に小さなチョンマゲを乗っけた3人の力士が通りかかった。

「あっ、お相撲さん。どこの部屋の方ですか」

「オレたちかい。ほら、すぐそこの二所ノ関部屋だよ。横綱の大鵬がいる部屋さ」

「そうか。こんな近くにも、まだ部屋があったんだ。ボクも、力士になりたいんですけど、親方、会ってくれるでしょうか」

「ついて来な。こっちだ。いまなら、ちょうどいるから」

 麒麟児は、はじかれたようにベンチから立ち上がると、間もなく兄弟子たちとなる力士の後ろにくっついて二所ノ関部屋に向かった。

 こうして、この両国公園が取り持つひょんな縁で麒麟児の二所ノ関部屋への入門はトントン拍子に進み、新学期の4月にはもう柏市から二所ノ関部屋に引っ越し、近くの両国中に転校することになった。

 この両国中には、早生まれと遅生まれの違いで学年は麒麟児より1年下だったが、のちに“花のニッパチ”と力士仲間に恐怖の目で見られ、大相撲界に熱い旋風を巻き起こした同じ28年生まれの北の湖(のち横綱)や、大錦(のち小結、現山科親方)らも通っていた。麒麟児は、何不自由なく育った一人息子ならではの伸びやかさでその輪の中に自ら飛び込んで行ったのだ。

「うちのオヤジは国鉄(現JR)マンで、当時は品川駅の助役でした。その後、北松戸駅や、金町駅の駅長などを経て退職したんですが、うちはもともと、おじいちゃんが高崎駅の駅長をやり、オヤジの弟も運輸省に勤める、という国鉄一家なんですよ。当然、オヤジは、自分もいずれは国鉄マンに、と考えていました。それが突然、畑違いの力士になりたいと言い出し、しかも、さっさと入門先まで自分で見付けてきたものですから、そりゃあ、びっくりもしますよ。最初は猛反対。でも、だんだん自分の気持ちを分かってくれましてね。最後には、『お前がそこまでやりたいのならやってみろ、ただし、やるからには性根を据えて一生懸命やれ』と条件付きで許してくれました。あのときのオヤジの決心には、いまでもものすごく感謝していますね」

 と63年秋場所、足掛け22年にわたる力士生活にピリオドを打ち、年寄「北陣」を襲名した麒麟児は、わずか14歳で自分の進路を決めた日のことを振り返った。(続)

PROFILE
麒麟児和春◎本名・垂沢和春。昭和28年3月9日、千葉県柏市出身。二所ノ関部屋。182cm128kg。昭和42年夏場所、本名の垂沢で初土俵。49年初場所新十両、麒麟児に改名。49年秋場所新入幕。最高位関脇。幕内通算84場所、580勝644敗34休、殊勲賞4回、敢闘賞4回、技能賞3回。63年秋場所で引退し、年寄北陣を襲名。二所ノ関部屋で指導に当たる。平成30年3月8日、停年退職。

『VANVAN相撲界』平成6年2月号掲載

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